第2回沖縄の少女は母の死後ひとり大阪へ 41年スナック続けた81歳ママ

有料記事消えゆく魔窟 「味園ビル」に魅せられて

川村さくら 動画制作・佐藤慈子
【動画】消えゆく魔窟 味園ビルに魅せられて 「スナックまち子」=佐藤慈子撮影
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 「お母さんが生きてたら、私ここにおらんかったと思うわ」。2024年で41周年を迎えた「スナックまち子」のママ、桑江京子さん(81)は沖縄出身。母の死を機に大阪へ来た。

 1943年、沖縄県東村に生まれた。5人きょうだいの末っ子。戦死した父のことは覚えていない。

 中学卒業後、住み込みでお手伝いさんをしたり、売店で働いたり。その売店はキャンプ地へ続く道沿いにあり、米兵がチョコを車から投げていく「ギブミーチョコ」さながらの光景をよく見た。

魔窟。大阪・ミナミの味園ビルはそう呼ばれました。日本最大級のキャバレーやホテルを擁すも、既に閉鎖。個性的な飲み屋が集まった2階もほぼ全ての店が昨年末で営業を終了。令和に残った昭和のビルを記録しました。

 京子さんが18歳のころに、母親ががんで亡くなった。きょうだいはみなすでに家族を持っていた。京子さんもお見合いして結婚することを勧められたが、早すぎて嫌だった。大好きだった母がいなくなり、自分の力で生きていこうと思った。

家族に見送られず、ひとり沖縄を離れた

 大阪の紡績の仕事を見つけた。きょうだいは沖縄を離れることに反対し、誰も見送ってくれなかった。同じように集団就職で沖縄を出る人々が紙テープで見送られるなか、ひとり沖縄を離れた。

 「兄が病気だ」と親族が大阪までやってきて、沖縄へ戻ったらうそだったこともあった。「大阪へ荷物を取りに行く」と引き返し、そのまま、沖縄には戻らなかった。

 紡績工場、電気機械の工場、企業の社長宅のお手伝いさん……。「あちこちよう仕事をした。やからこそここでいろんな人と会話できるんや」と京子さんはふりかえる。

 20代半ばのころ、ある男性と出会い、相手の親族からの猛プッシュを受けて結婚した。「親もおらんし、だれでもいいから面倒みてあげてもいいかなと思った」

 30歳で料亭の仲居をしたが、子ども2人の面倒を見られない。託児所付きの時間制サロンがあるミナミに移り、味園ビル内にあるキャバレー「ユニバース」で2週間ほど働いた後、同ビル2階でスナックを始めた。店名は「まち子」。「京」という店が他にあったのと、「まち子」という店の空きテナントを引き継いだので、店名はそのまま、まち子にした。

味園ビルの最盛期の家賃は……

 ユニバースの女性たちがよく…

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この記事を書いた人
川村さくら
ネットワーク報道本部|大阪駐在
専門・関心分野
人権、差別、ジェンダー、サブカル
佐藤慈子
大阪社会部
専門・関心分野
子ども・自然・動物・食・福祉・和文化・芸術など

連載消えゆく魔窟 「味園ビル」に魅せられて(全5回)

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