【更新中】「よりそう」紙灯籠に託した思い 阪神・淡路大震災30年

社会タイムライン

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 最大震度7の揺れによって、6434人の命と日常が失われた阪神・淡路大震災から17日で30年になります。追悼と祈りの1日に向けた被災地の表情をタイムライン形式で伝えます。

■■■■1月16日の動き■■■■

17:46

発生12時間前にあわせ黙禱 「しのぶ気持ちと平和への願い」

 神戸市中央区東遊園地では、「よりそう」の文字に並べられた紙灯籠(とうろう)の前で、地震発生時刻の12時間前にあわせて市民らが黙禱(もくとう)を捧げた。

 神戸市須磨区の女性(77)は、7年ほど前から毎年、灯籠を並べるなどの準備にボランティアとして参加している。

 震災当時、身の回りの被害は少なかったが、同市長田区の夫の実家が全焼した。地震直後に駆けつけて見た、街が燃える様子は今も目に焼き付いている。

 震災から2日後、長田区に住んでいた義父が亡くなった。寒い中公園に避難し、その後発熱。災害関連死だったという。「災害がなければ死ななかったと思う。しのぶ気持ちと、災害が起きず平和であるようにと願いを込めて準備している」と話した。

 神戸高校2年の山下稜輔さん(17)は、昨年に続き野球部として準備に参加した。震災を経験した地理の先生から、断層や土砂崩れのリスクがある地理を知っているだけでも、備えが変わると教えられた。「教訓として伝えていかないといけないと思った」

17:46

「30年前のあの日、昨日のことのよう」

 兵庫県伊丹市の昆陽(こや)池公園で、阪神・淡路大震災の追悼のつどいがあった。震災翌年の1996年から続く恒例行事で、震災で失われた命の数と同じ6434本のろうそくに灯がともされた。

 日が暮れるころ、市内の中学生や住民らが集まりろうそくに一本ずつ灯をともしていった。午後5時46分、主催するボランティア団体「ユー・アイ・アソシエーション」の赤松弘揮代表(56)の呼びかけで、参加者たちは黙とう。赤松さんは「30年前のあの日あのときを昨日のことのように思う。いまは亡くなった人たちが生きていた時間。テレビを見たりご飯を食べたり、けんかをしたり。この時間にともし続けることに意味がある」とあいさつをした。

 地震発生時刻までの12時間、ボランティアらがロウソクを継ぎ足して灯を守る。

17:46

ラグビー・コベルコ神戸の日和佐選手「何か感じるプレーを」

 ラグビー・リーグワンのコベルコ神戸スティーラーズの選手約20人が、神戸市中央区の東遊園地で黙禱(もくとう)した。前身は神戸製鋼ラグビー部。阪神・淡路大震災が起きたのは、日本選手権で7連覇を達成した2日後だった。

 元日本代表の日和佐篤は神戸市北区出身。震災時は小学1年生だったが、「本当にすごい揺れだったのは今でも覚えています」。点灯した紙灯籠(とうろう)には「和」の1文字を書いた。

 「『心穏やかに』という願いと、色々なつながり(の大事さ)という思いを込めた。地震を防ぐことはできないが、学びから生かせることはたくさんあると思うので、そこを大切にしたい。当時、プロ野球オリックスと神戸製鋼の存在が支えになった。僕も一生懸命、皆さんに何か感じていただけるようなプレーを必死になってやりたい」

 コベルコ神戸スティーラーズの選手とスタッフは、この日と17日、東遊園地での「阪神淡路大震災1.17のつどい」にボランティアとして参加している。

17:46

「生」のオブジェ、ライトアップ

 震災からの再生を願って、兵庫県宝塚市の宝塚大橋近くにつくられた「生(せい)」の文字の金属製モニュメントに、同市での犠牲者数と同じ119本のろうそくがともされた。地震発生時刻の12時間前の午後5時46分、集まった市民らが黙禱(もくとう)した。

 橋の下を流れる武庫川の中州では、石を積んでつくった「生(せい)」の字のオブジェが懐中電灯でライトアップされた。

16:00

両陛下、被災者と懇談 30年を振り返るパネルも見学

 天皇、皇后両陛下は神戸市の兵庫県立兵庫津ミュージアムを訪れ、阪神・淡路大震災の被災者ら4人と懇談した。

 20歳で被災し、避難所生活が半年以上続いたという新川修平さん(50)は現在、障害者のアート活動を支援している。皇后雅子さまは障害者が描いたコウノトリの作品を前に「温かみのある作品ですね」と感想を伝えていた。

 これに先立ち、両陛下は同ミュージアムで震災30年の歩みを振り返る特別展示を見学。地震の大きさや被災状況を伝えるパネルなどを見て回った。天皇陛下は「語り部活動」の紹介に興味深そうにうなずいていた。

16:10

能登地震の発生時刻にあわせ黙禱

 追悼行事「1.17のつどい」の準備が進む神戸・東遊園地では、能登半島地震の発生時刻にあわせて、黙禱(もくとう)があった。

 石川県輪島市自治会長を務める刀祢(とね)聡さん(68)は「30年という長い年月、市民がどんな思いで参加してきたのか知りたかった」と東遊園地を訪れ、ボランティアとともに紙灯籠(とうろう)を並べた。

 黙禱を終え、「神戸で亡くなった人への哀悼の意と、何とか神戸の人の思いを能登に持ち帰って、私たちも能登のためにがんばりたいという思いを込めた」と語った。

14:50

殿堂入りイチロー氏「神戸は今も特別な場所」

 野球殿堂博物館(東京都文京区)は、今年の野球殿堂入りを発表した。競技者表彰のプレーヤー部門に選ばれたイチロー氏(51)は、プロ野球・オリックスに在籍していた1995年、神戸市内にあった球団寮で被災。殿堂通知式のスピーチでは、震災当時を振り返り、神戸の街への思いを語った。

 「あすで阪神・淡路大震災から30年がたちます。当時僕は21歳。オリックスの寮で眠っていたんですけど、初めて命の危機というか、自分もこれで死んじゃうのかもしれない、寮があったエリアはそんなに大きな被害はなかったのですけど、それでも初めて命について考えさせられた時間でした。こういうことっていうのは、なかなか経験していない人たちに伝えていくのは大変難しいことなわけですけど、当時の被災者として経験した思いというのを、経験しなかった子どもたちにこれも伝えていけたらなと思っています。そして神戸は僕にとって今も特別な場所で、オフにはたまに神戸に寄ることもあるんですけど、これからも自分なりに進んでいく姿が、誰かのきっかけになったり、支えになったり、そんなふうになれたらいいなと思っています」

14:40

石川の馳知事「阪神でできた法律・対応策、能登の前例」

 昨年の元日に起きた能登半島地震から1年が過ぎた石川県。馳浩知事は、記者会見で、阪神・淡路大震災について、「国家を揺るがす大規模な地震を経験し、後にできた国の法律や対応策、ほぼすべてが能登半島地震の際、県、被災地にとって前例として大変役にたったことが多々あった」と述べた。

 一方で、能登で起きた地盤の隆起やインフラの大規模な途絶に触れ、「前例になかったことも起きた。地震の検証と記録、政府とのやり取り、自治体との連携をしっかり残しておかなければと痛切に実感している」と付け加えた。

 知事によると、阪神・淡路大震災があった当時は新日本プロレス所属のレスラー。震災が政治家をめざす動機の一つになり、同じ年の1995年7月の参院選で初当選した。

12:00

銘板2人追加 「生きていれば、やさしいおばあちゃんに」

 阪神・淡路大震災の犠牲者や、復興に尽力した人の名を刻んだ「慰霊と復興のモニュメント」(神戸市中央区)に、新たに2人の銘板が加わった。遺族が名前のプレートを貼り付け、祈りを捧げた。刻まれた名前はこれで5070人となった。

 兵庫県尼崎市の松久保愛香さん(当時20歳)は地震で自宅のはりに挟まれ亡くなった。放射線技師を目指していて当時は短大の3年生。母・喜代子さん(82)によると、3人きょうだいの1番上で、下の子たちの面倒をよく見るしっかりした子だったという。「(愛香さんが亡くなり)こんなつらさをみるとは思っていなかった。銘板に名前が刻まれ、『よかったね』と語りかけました」

 同県芦屋市の清水豊子さん(当時45歳)は地震後も寒いなか自宅で片付けなどを続け、心臓発作で翌2月に亡くなったという。7歳下の弟の清水芳春さん(68)は「姉のために名前を刻めて晴れやかな気持ちが半分。もう半分は、生きていれば75歳で、やさしいおばあちゃんになっていたのではと残念な気持ち。もう一回会いたい」と話した。

11:40

両陛下が神戸入り 追悼式典の出席は即位後初めて

 天皇、皇后両陛下が羽田発の特別機で神戸空港に到着した。17日に阪神・淡路大震災の追悼式典に出席するためで、天皇陛下が追悼式典に出席するのは4回目で、即位後は初めて。16日は斎藤元彦・兵庫県知事から復興状況を聞き、地元関係者と懇談する。

 震災翌月の1995年2月、皇太子だった天皇陛下は雅子さまと合同慰霊祭に参列。翌年の犠牲者追悼式、震災15年にあたる2010年の追悼式典などに出席した。毎年、震災の発生時刻にあわせて、両陛下や愛子さまはお住まいで黙禱(もくとう)しているという。

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