「障がいの象徴」車いすで変わった 芸人・ホストを経て
「もしかしたら自分は他人と違うのかも」。そんな違和感を名古屋市出身の寺田ユースケさん(30)は幼少期から感じていた。
2歳の時に脳性まひと診断された。両足にこわばりがあり、ゆっくりとしか歩けない。周りから好奇の目で見られることも珍しくなかった。
小学4年の時だろうか。道ばたで「お前の歩き方、変だな」と上級生に上履き袋を取られた。返してもらおうとしたが放り投げられ、袋は近所の車のボンネットへ。上級生は逃げ、ユースケさんだけが謝った。
それでも幼少期は楽しかった思い出が勝る。ユースケさんの母・恭子さん(57)と父・泰人さん(57)はともにスポーツに親しみ、運動や健康に関する研究に携わる「スポーツエリート」だ。ユースケさんも幼い頃から体を動かすのが大好きだった。脳性まひと診断された後も、中日ドラゴンズのファンだった泰人さんと時間が許せば公園でキャッチボールをした。小5で入った少年野球チームではチームメートや指導者にめぐまれ1軍の公式戦にも出場した。
心の片隅で感じていた違和感が重くのしかかるようになったのは、成長するにしたがって周りとの差が広がっていったからだ。
公立中学校でも野球部に入ったユースケさん。練習試合に代打で出場した時のことだ。左越え打を放ち、一塁ベースを蹴って二塁に行く途中で、走るのを止めた。思い切り走れば二塁打になる当たりだったのに。内股で足を引きずるように走る姿が恥ずかしくて、三塁側ベンチの相手に見られたくなかった。そして、どんなに練習しても試合に出られることはほとんどなかった。
越えられない壁を感じたのは私立高校入学後。それまで軟式だった野球が硬式に。白球の速さについていけず、捕球はおろか避けることも難しくなった。朝から放課後遅くまである練習や、毎週末のような遠征にも、体がついていかない。そして監督から記録員への転身を打診された。
「小学生の頃からずっと頑張ってきたのに」
高1の冬、選手でいられないなら、と野球部を辞める決心を固めた。
その日、学校は午前中のみだった。帰宅すると、恭子さんが昼食のチャーハンを出してくれた。
「なんで、俺が辞めなきゃいけないんだよ。なんで、なんでこんな体に産んだんだよ!」
そう叫んで、食卓の皿をひっ…