「東京に勝てない」 諦めが生んだみなとみらいのアイデンティティー

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足立優心
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 横浜市のみなとみらい21地区には約1890の事業所が集まり、13万人以上が働く。一方で観覧車がある遊園地やロープウェー、ライブ会場、商業施設などもあり、コロナ禍前は年間に8千万人以上が訪れた。

 みなとみらいエリアのマネジメントを担う一般社団法人横浜みなとみらい21理事長の坂和伸賢(さかわしんけん)さん(64)は「こんな街ができるとは思っていなかった」と話す。

 坂和さんは横浜市職員として30代の頃からみなとみらい地区の開発に携わってきた。もともとオフィスを中心とした複合的な街をめざしていたみなとみらいが、これほどまで多彩な街に育ったのは、開発が計画通りに進まなかったからだという。

「産業構造の変化が後押しした」と坂和伸賢さん

横浜の代名詞となった「みなとみらい21地区」が今年、着工から40年を迎えます。この開発に携わってきたキーマン2人が振り返ります。

 みなとみらいの開発は高度経済成長期の1965年に構想された。

 当時、東京都は急速な人口増加が進んでいた一方、横浜市は中心部や港湾施設を米軍に接収されたこともあり、戦禍復興に遅れが生じていた。その結果、ベッドタウン化が進んでいたという。

 こうした状況に危機感を募らせた飛鳥田一雄市長(当時)が地下鉄や高速道路網の建設といった「6大事業」を打ち出した。そのうちの一つが、みなとみらいを開発する「都心部強化事業」だった。

 みなとみらい地区にはもともと、三菱重工の造船所や国鉄の貨物鉄道の操車場があったが、造船需要は減退していたほか、貨物輸送が鉄道から自動車に移行しつつあった。こうした産業構造の変化が開発を後押ししたと坂和さんは解説する。

「本当にできるの?」と懐疑的な声も

 もう一つの開発の狙いは、横…

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