「もしもう少し人数を引き連れていたなら光秀を追いかけ、織田殿の敵を討つが…」
本能寺の変(1582年)の一報を堺から京へ戻る途上で聞いた、徳川家康の最初のリアクションが、「徳川実紀」(現代語訳/吉川弘文館)に記されている。
今年1月に徳川宗家当主に就いたばかりの家広さんは、朝日新聞ポッドキャストに出演し、家康の行動についての自説を披露。記事の中盤で聴くことができます。
NHK大河ドラマ「どうする家康」では、岡田准一さん演じる織田信長に、幼い頃からその強さを見せつけられ、反発しながらもつき従い、しまいには「信長を殺す」と決意する家康(松本潤さん)の姿が描かれている。徳川実紀の記述は、そんなドラマでの描写とはやや異なる印象を与える。
「徳川実紀」での家康のセリフはこう続く。
「中途半端なことをして恥をかくよりは急いで都にのぼって知恩院に入り、切腹して織田殿と死をともにしよう」
現代の物語では「異端児」「剛腕」「こわもて」に解釈されることが多い信長。歴史書では、信長へのあつい忠義心をもちつづけていたようにみえる家康だが、実際はどうだったのか。
家康の末裔(まつえい)、徳川宗家19代当主である徳川家広さん(58)の想像をまじえた見方は――。
「本当はあまり好きではなかったと思いますよ。誰かしら信長を殺すよな、と思っていたのでは」
◇
武田側につく選択肢も?「一番を敵に回して嫌なのは誰か考えた末…」
家康の実像について、文献を引きつつも、子孫の立場から独自の解釈を加えて語る家広さん。
「徳川実紀」自体が江戸後期の1800年代に成立したものであり、その記述を「ある程度美化されたもの」とする見方を示したうえで、そのように考える理由をこう想像した。
「信長はまっさらなところに…
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