第4回秀吉に勝ったのになぜ臣従? 家康が感じていた「不気味さ」とは

有料記事どうなの?家広さん

岸上渉
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 徳川家康と羽柴秀吉が相まみえた小牧・長久手の戦い(1584年)。本能寺の変から2年、発端は織田家の跡目争いだった。

 徳川実紀(現代語訳/吉川弘文館)によると、当時、信長の孫にあたる三法師を立て、「自らは天下を統一しようとの考えをひたすら肝要として」いた秀吉。その1年前には賤ケ岳の戦いで、信長の三男・信孝と重臣だった柴田勝家を討ち滅ぼしている。

 今年1月に徳川宗家当主に就いたばかりの家広さんは、朝日新聞ポッドキャストに出演し、家康の行動や心理についての自説を披露。記事の中盤で聴くことができます。

 歴史の授業などで、信長の跡を継いで天下統一を成し遂げた、と認識している人が多いかもしれないが、そのイメージに否定的な見方をするのが、徳川宗家19代当主の徳川家広さんだ。

 「秀吉があっさり信長の子を殺していることを気にしてほしい。信長の跡を『継いで』ではなく、『奪って』です」

 戦国時代を描いた作品では、どちらかが「悪者」に描かれることの多い2人。NHKの大河ドラマ「どうする家康」でも、信長(岡田准一さん)の遺志を継いで天下取りをめざす家康(松本潤さん)に対し、ムロツヨシさん演じる秀吉が、絶妙な悪役に描かれている。

旧来の統治者とは異なる秀吉…家康はどうみた?

 実際の家康は、秀吉のことをどうみていたのか。宗家の立場から徳川家の歴史を調べている家広さん独自の解釈を聞くと――。

 「信長も気持ち悪かったけど、秀吉はもっと気持ち悪い、不気味な存在だと思っていたのではないでしょうか」

 信長の後継者として、まだ幼…

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この記事を書いた人
岸上渉
コンテンツ編成本部|音声/動画
専門・関心分野
地方政治、経済、スポーツ、歴史、平和、メディア