反射炉を造った地方代官
男は焦っていた。
蘭書(らんしょ)を読む限り、外国と日本の軍事力の差は明らか。東アジアの大国・清もイギリスに負けたらしい。戦争になれば、日本は間違いなく負ける――。
国を憂えた結果、地方代官の身ながら筆を執り、幕府にこう建議した。
「反射炉を造るべし」
黒船に乗ったペリーが浦賀沖に現れ、開国を迫る11年前、1842年の話である。男の名は江川英龍(ひでたつ)。伊豆国などの幕領を治める韮山(にらやま)代官だった。
性能の良い大砲を量産するには、優良な鉄を作る必要があった。それには、炭素を多く含むため、硬いがもろい銑鉄(せんてつ)を溶かすことができる反射炉が必要になる。欧州では広く使われていたが、当時の日本にはない。技術も知識も不足していた。そんな状況で反射炉の必要性を認識し、築造したのだ。どうやって? 答えを探しに、韮山(静岡県伊豆の国市)へ向かった。
ビニールハウス群を抜け、山のふもとにたどり着くと、れんが造りの建物が現れた。「明治日本の産業革命遺産」の一つとして、2015年に世界遺産に登録された韮山反射炉だ。2基4炉で高さは約16メートル。実際に稼働した反射炉としては国内で唯一現存している。
「反射炉は大砲製造工場の一角をなしていたんです」。市文化財課の工藤雄一郎さん(54)が説明してくれた。反射炉はあくまで溶解炉。溶かした金属は隣の鋳台で鋳型に流し込み、大砲の形にする。その後別の場所で水車の動力を使って大砲の砲身をくりぬく。水車へ水を供給した河川の一部も世界遺産なのは、製砲工場としての産業システムが評価されたからだ。
記事の後半では、多才だった江川英龍の人となりについて考えます。絵の腕前は一級品、パンまで自分で作ったといいます。
■高温を実現するために反射さ…
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