第2回松岡正剛が興奮した印刷の現場 文化の技術と出会い、編集にめざめる
《中学卒業までは京都で暮らしたが、高校入学の直前に横浜へ引っ越すことになった》
京都の朱雀(すざく)高校に合格して入学が決まっていたのに、父が母にも内緒で横浜・元町に呉服の店を出すと決めてしまったんです。京都では「松岡はんとこは倒産しはった」と知られていたから、どうしようかと、よっぽど考えてのことだったんでしょう。それで2次試験のある学校を受験して、東京の九段高校へ行くことになりました。
《高校では出版委員会(新聞部)に入った》
中学校を出るときに、ガリ版印刷で卒業文集みたいな冊子を作った。そのとき京都の「アメリカ文化センター」に行って、向こうの新聞を見た。ニューヨーク・タイムズとかワシントン・ポストとか。それがものすごくかっこよく見えて、新聞や雑誌というメディアに関心を持ちました。それから新聞記者にあこがれた。
「九段新聞」は日刊工業新聞社の印刷所で組み版や校正をしていたんですが、すぐ横では大人たちが赤鉛筆でゲラ(校正用の試し刷り)に書き込んでいたり、将棋を指しながらたばこを吸っていた(笑)。そういう印刷の現場がかっこよかった。初めて出会う文化の技術でしたから、ものすごく面白かったですね。夢中になりました。
編集工学者・松岡正剛さんが半生を振り返る連載「『わかりやすさ』に抵抗がある」。全4回の第2回です。