第8回「死んでもつきまとう」偏見、帰郷できぬ遺骨 仲間のため悲劇伝える
トシオさんはこの春、かつて過ごした瀬戸内海の島のハンセン病療養所を訪ねました。納骨堂に眠る仲間に手を合わせ、「被害と悲劇」を伝えていくと誓いを立てました。
俺には四つの名前があります。
ひとつは「○○トシオ」という幼少期からずっと使ってきた名前です。小学3年の時に長島愛生園に入所したので、園内でもそのまま同じ名前を使っていました。園の仲間やハンセン病回復者の会合、支援センターや関係者の人にはこの名前を名乗っています。療養所の入所者は園内で「園名」を名乗ることが多く、父親はそうしていました。
2つ目は民族名というか、在日コリアンとしての本名です。でも、これまでの生活で自分から名乗ったことはありません。
長島を出て48歳で社会復帰した後、運輸関係の仕事をしましたが、職場で使った日本名は、愛生園で名乗っていたのとは別の名前にしました。愛生園にいたことが分からないようにしたいと思ったからです。これが三つ目です。
もう一つ、別の名前があります。父親と俺がハンセン病になり、母親が子どもを連れて山口から大阪に出てきた時、母親らはそれまでとはまったく別の名字を名乗るようになりました。だから俺が中学3年で軽快退所して母親のもとで暮らしていた頃からのなじみの店では、母親らが使った名前にあわせて四つ目の名字を名乗っています。
自分自身はもう複数の名前を使い分ける生活に慣れました。でも、ハンセン病に対する偏見や差別がなかったら、四つも名前をもつことはなかったやろうなあと思います。
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桜がほころび始めた今春、トシオさんは長島を訪れた。
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