2007年の冬、車を運転していた鹿児島県鹿屋市の宮崎美和子さん(59)の左手が何の前ぶれもなく突然、ぶるぶると震えだした。
「なにが起きたの?」
その日は休日で、小学6年の息子をソフトボールクラブの練習へ送っているところだった。ハンドルから左手を離し、ひざの上に置くと、震えはすぐにおさまった。
このとき43歳。地元の医療機関で看護助手として働いていた。公務員の夫と、娘2人息子1人の5人家族。かぜもひかない健康な体が自慢だった。
中学でバレーボールを始め、高校では県大会優勝。勤め先のママさんバレーでも汗を流していた。
「レシーブで、どこかの神経を圧迫したのかも」
「若いから違うと思うんだけど…」
翌日、かかりつけの医師に相談したところ、思いがけないことを言われた。
「若いから違うとは思うんだけど、パーキンソン病の可能性があるかも」
パーキンソン病は脳の奥にある「黒質」という部分の神経細胞が減って起きる。40代未満の患者は非常に少なく、高齢になるほど多くなる。
黒質の神経細胞は、運動の制御に深く関わる脳内物質「ドパミン」をつくる。パーキンソン病では脳内のドパミンが不足し、手足の震え(振戦)や、筋肉がこわばって力を抜けない(筋強剛)、動きがゆっくりになる(動作緩慢)といった運動障害がみられる。
相談した医師は、確実な診断のため、脳神経内科のある近くの別の病院を教えてくれた。宮崎さんは「まさか違うだろう」と、しばらくそのままにしていた。ところが、その後、震え以外にも、背筋が伸ばせなかったり、歩きにくかったりすることがあった。
最初の症状から約1カ月後、教えてもらった病院を受診。手の震えなどの症状を診てもらった結果は、やはりパーキンソン病だった。
発症10年後には寝たきりに――。
10年ほど前に買った家庭用の医学解説書の記述を思い出し、宮崎さんは目の前がまっくらになった。
だが、当時の主治医の言葉に救われた。「宮崎さん、いまは昔とちがって、症状を抑える良い薬がある。そんなに深刻に考えなくても大丈夫ですよ」
この病気は、運動に関わる脳内物質ドパミンをつくる神経細胞が減り、脳内のドパミンが不足することで、手足の震えなどの症状が出る。
治療は飲み薬で症状をコントロールすることが基本になる。中心となる飲み薬の成分「L―ドパ」は、脳内でドパミンに変わり、不足するドパミンを補い、症状を抑える。
初めてこの薬を飲んだとき、それまで重かった宮崎さんの体は、つきものがとれたように軽くなった。
「薬が効いてしまった」
自分は本当にパーキンソン病なのだと証明されたようでショックだった。
仕事辞めるわけには
市内の医療機関で看護助手として働いてきた。病床のシーツ交換や患者さんの入浴介助など、体を使う「けっこうハード」な仕事だった。
3人の子どもたちはまだ中学生と小学生。いま仕事を辞めるわけにはいかなかった。倉庫で備品を管理する業務に配置を換えてもらった。
主治医の転勤で09年、鹿児島県姶良市の病院に受診先を変えた。自宅から夫の運転する車で約1時間半かけて通った。
この病院で、脳神経内科の有里敬代(ありさとたかよ)医師が主治医になり、抗パーキンソン病薬などでの治療を続けた。はじめのうちは薬を飲めば症状は抑えられていた。
だが、徐々に薬の効きは鈍くなった。仕事中に症状が出ないように薬を多めに飲むこともあった。それでも効果が切れてしまうことがあった。
体が重く、左腕が激しく揺れはじめ備品管理のためのパソコン操作も難しくなる。
ある時、期限切れの備品が増え、それを自分のミスのように責められた。
「自分のせいじゃない」
反論しようとしたが、感情が高ぶり言葉を発しようとすると、体が揺れ始めてしまった。黙って、歯を食いしばり仕事を続けた。
3人の子どもたちの高校卒業を見届けた後、18年に勤めていた地元の医療機関を退職した。家族は仕事などで外出し、日中を自宅で一人で過ごすようになった。
薬が効いていれば大きな問題はない。しかし、いったん手の震えが始まると、包丁を使って料理ができなくなるなど、さまざまな日常動作に支障が出てしまう。
そこで訪問介護サービスの利用を始めた。毎朝10時の定期訪問のほか、突発的に助けが必要なときにも介護員に来てもらうことになった。
発症から10年以上たち、症状のコントロールは、さらに難しくなっていた。
症状が抑えられている時間は…
【初トクキャンペーン】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら