罪を犯した人の更生、民間が支えるのはなぜ? ルーツの静岡で考えた
大津市で保護司が殺害され、保護観察中の男が殺人容疑で逮捕された事件は、保護司制度の根幹を揺るがした。罪を犯した人の更生を、無給のボランティアが支えているのは、なぜなのか。そのルーツをたどりに、静岡へ向かった。
「保護司」のルーツは静岡にあり
JR浜松駅からバスで約20分。国道1号近くに日本家屋が立つ。地元の実業家、金原明善(1832~1923)の生家だ。いまは記念館として一般開放されている。
明善は、水害が頻発していた地元の天竜川の治水事業に奔走した人物として知られる。2018年に当時の安倍晋三首相が施政方針演説で引用して話題にもなった。植林や銀行などの事業も手がける中、力を入れたのが「出獄人保護」だった。
きっかけは明善の治水事業に派遣されていた人物が、西南戦争に関連して政府転覆を謀ろうとしたとして有罪判決を受け、服役したこと。出所したこの人物を介し、同様の罪で服役していた川村矯一郎に出会った。
囚人は人間として扱われない――。そんな内情を聞き、1880(明治13)年に「静岡勧善会」を設立。県下の監獄に僧侶らを派遣するなどして、囚人の改心を促す取り組みを始めた。
記念館の館長は、明善の玄孫にあたる金原利幸さん(74)が務めている。利幸さんは「明善の行動の根底には、『人は皆平等』『日本を豊かにしたい』などの考えがあった。『人づくり』を重視していて、治水事業などでも、自らが薫陶を授けた人に任せてうまくいった。人づくりや教育の力を信じていたのです」と、明善が立ち直り支援に取り組んだ理由を解説する。
明善の推薦もあって、川村は静岡監獄の副典獄(副所長)になった。だが、悲劇が起きる。
「出所後のサポート」を開始、渋沢らも支援
川村のもとで改心した元囚人が郷里に戻ると、妻には新たな家庭があった。親戚らからは門前払いされ、寝る場所も食べ物もなかった。「二度と罪は犯さない」という川村との約束を守り続けた末、自ら命を絶った。
この話を聞き、心を痛めた明…