入院であったら便利だったもの、あったらよかったと思ったもの。なんだこんな実用もの書いてる場合か?

2018.07.27 Friday 12:55
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    退院明日に決まった。

    最短7日と言われたけど、10日かかった。

    そんでも、みんな早い早いと言ってくれる。

    私自身は早いのか遅いのかわからない。

    10日の間にあったことは、時間の概念を超えてしまった。

    これから続いていく日常のことも、よくわからない。

     

    そんな空中庭園みたいなところにぽっかり浮いている気がする今日なんだった。

     

    で、入院最後の日に荷物とかちょろちょとまとめながら

    これ持ってきてよかったなあ、とか、あったら便利だったのに、と思ったものを書こうとしてる。

    職業病か。

    ま、いいや。許して。

     

    私は最初の4日間、一番つらかったときは2人部屋を1人で使わせてもらっていて、それはそれでとてもよかったんだけど、5日目に冷房を使いたくないという高齢の方が隣に入ったので、冷房命の私としては、後半戦耐えられそうになく個室に移動させてもらった。

    結果的に、動けるようになってからの個室はすごく快適で、眠りの質も確保できて本当に良かったと思う。お金はかかっちゃったけど、非常事態の出費として、また頑張るよ。

     

    (最初の投稿で、一番大事なものを失念していたので、加えました。1は絶対に必要!!!)

     

    1,延長コンセント

     

    下のWFIとか、携帯の充電、その他いろいろ電源が必要なものが結構あるので、あらかじめ予測して持参して、本当に助かった。ベッド周りのコンセントは医療機器で占領されていることが多いし、携帯の充電は枕元に近いほうがいいので、ひとつあるととても便利。

    コードが長すぎるをかえってじゃまにかるので、このくらいのコンパクトなやつがいいかも。

     

     

    2,入院用WIFI

     

    1日からレンタルできるのを借りて持ってきてもらった。

    手術後数日は、音楽も映像も受け付けなかったけれど、少し元気になってきたらアマゾンプライムのビデオや、音楽に救われたー。イヤフォン使ったけど、もっといいヘッドフォンあったらよかったと思う。

     

    術後で体力使ったあとは、本は読めない(目が異様に疲れる)し、目をあまり使わないほうがいいらしいので、音楽や気軽なビデオぐらいがいいのかなー。病院テレビでは民放もNHKも普段からまったく見ないし、見てみても想像を絶するつまんなさなので(笑)、WIFIありがとう。

     

    3,アロマデフューザーとエッセンシャルオイル

     

    息子が誕生日に買ってくれた無印のデフューザーを、ダメ元でもってきて大正解じゃった。

    同室者がいると香りは気遣うかもしれないけど、蒸気だけでも癒やされるし、常夜灯にもなった。

    水が切れるたびに補充するのは大変なので、ペットボトルに水道水を入れて近くに置いておいたら便利。

    快眠に効くエッセンシャルオイルは、マスクやタオルに落としても癒やされたし、個室に移ってバスルームがついたときには、足湯にも使った。

     

    病院は独特な臭いがあるので、同室者がいてもお断りすれば、意外と喜ばれる気もするなー。

     

    4,S字フックとかご

     

     

    最初は2人部屋指定だったので、荷物の置き場所を確保するためにフックとベトナム製のかごバッグ。

    手術後動きにくい時に、棚の上や中のものは取りにくいし、ベッドテーブルも起き上がらないと届かず痛みがあると辛かった。

    ベッド横にセットしておいたら、寝たまま手が伸びて超便利じゃった。

    S字フックもかわいい花つきにして、バッグも明るい色にしたら、病室が明るくなっていがったいがった。

     

    5,100円ショップの介護用ペットボトル用吸口

     

    これはお友達が調べて調達してくてくれたもの。結果的に大ヒットのグッジョブだった!

    コップの吸口は、水を誰かに入れてもらわねばならず、こぼれやすいけど、これはベッドの中に持ち込んでももれずに優秀じゃった。誰か来たらとにかくペットボトルを補充してもらって、飲み終わったらこの吸口だけ自分で付け替えてずっと抱えてた。

    ペットボトルにくっついてきたリラックマのカバーも大活躍じゃった。

     

    ペットは口開けて飲む行為だけでも結構体力を使うので、寝たきりのときはこちらがよいなあ。

    お友だちありがとう!

     

    6,ちび枕

     

    前に入院したときに、お友達がお見舞いに買ってきてくれたひつじのちび枕。

    座るときにちょっと腰に入れたり、枕の高さを調節するのにちょうどいいし、癒やしにもなるからって。

    それ、本当に役に立て、その後もずっと私のベッドのお供だったのを、今回も持ってきた。

    病院の枕はパイプ製で重く、リクライニングすると落ちてしまって、手が動かせないのでそのたびに看護師さんを呼ぶことになり、途中から使うのをやめてしまった。

    ちび枕バンザイ。

     

    あとはやっぱり、柄のかわいいタオルとか

    色がきれいなストール(ちょいがけにもなる)も、持ってきて本当によかった。

     

     

    病院にはパジャマと下着とタオルのレンタルがあって、洗濯で誰かを煩わせることを考えたらそれでいいやと思ったけど、考えてみたら1週間から10日ぐらいの旅は海外で普通にしているわけなので、洗濯なしで乗り切ることは難しくないんだった。

     

    好きな色のパジャマ、癒やされるもの、かわいい柄みたいなものがあるだけで、すごく救われた。

    下着は全部使い捨てのものを100円ショップで調達した。看護師さんも心得たもので、着替えの時に回収して捨ててくれたりもしたよ。

     

    失敗はTシャツを多く持ってきてしまい、術後しばらく前開きパジャマ以外、手があがらず着替えられなくて困ったこと。

    Tシャツ着るのって、からだ使うんだなあ。初めてわかった。

    で、お友達に頼んだらポリエステル製のすんごく可愛いのを買ってきてくれて。

    最初、綿じゃないと汗を吸わないではと話していたんだけど、綿のものよりシワにならず、不思議なことに体臭も気にならなかった。汗を吸ってしまうほうが、臭いやすいのかな。

    しわしわパジャマは気持ちも滅入るので、シワになりにくい素材って意外と大事なもんだ、と改めて。

     

    あと

    最初の日に作ったのがこの癒やしコーナー

     

     

    手術数日前、偶然通りかかってはじめて中に入った神田のニコライ堂で入手したイコン。

    パリの奇跡のマリアメダル教会のメダイ

    お友達の贈り物のお花やエッセンシャルオイル。

    動けない時、癒やされるものが目に入るだけで救われるなーってほんとに思う。

     

    病院の売店に、ちいさいぬいぐるみがいっぱい売られていたの。

    それもきっと、そんな気持ちなのかなーって思ったよー。

     

     

    あとはちょっとしたもんだけど

     

    7,時計

     

     

    息子が、入院した次の日に買ってもってきてくれた。

    「時間がわかるものが何もないなあと思って」と。

    家にアナログ式の時計はあるけど、音が気になるだろうと思ったからデジタル式を無印で買ってきてくれたんだそうだ。

    腕時計は起き上がらないと見られないので、寝たままわかる時計はグッジョブだった。

    食事の時間とかよく把握してコントロールしておかないと、体調も狂うので、時計大事。

     

    難点は夜光らないので、夜は時間がわからないこと。

    でも、夜目覚めて時計を気にすると逆に眠れなくなるので、それはそれで、見えないほうがよかったなあって思う。

    ありがとう!

     

    8,朝マスクとかいろいろ

     

    こんなのができるようになったのはもうずいぶんあとだけど>笑

    身動きも取れなかったあと、徐々に何かができるようになったときに、やっぱり女性だからお顔のお手入れとか始められたとき、気分がぐっと上向きになったよ。

    顔を洗いに行けなくても、拭いて、こんなマスクでさっぱりするだけでも、ぜんぜん違った。

    持ってきてよかったよー。

     

    あとはいい香りのハンドクリームと、リップバーム。

    これも上がる。

    必需。

     

     

    あとはお約束のふりかけとかジャムとか。

    私が入院した病院のごはんはとってもおいしかった。

    ごはんがおいしいって最強だ。

     

     

     

    逆にあったらよかったなあと思ったのは

     

    1,ヘッドフォン

     

    イヤホンは耳が痛くなるし音悪い

     

    2,耳栓とアイマスク

     

    2人部屋だった時は、病室の扉がオープンになっているので、夜間のナースコールや他の患者さんの音で熟睡できなかった。ヘッドフォンで音楽聞きながら寝たりもしたけど、それも意外と脳が休まらず。耳栓ほしかったなー。

     

    昼間の明るさ調節ができないので、お昼寝したい時にアイマスクほしかった。

    アロマであったかくなるやつ、持ってくればよかったなー。

    弱っている時って、目が疲れるものだと思った。

    明るさ調節だけではなく、目のケアとして、必要だなー。

     

    3,洗濯バサミ

     

    なんか1,2個あるだけでいろいろ便利だったような気がする。

    どうしてそう思ったのかは、あまり覚えてないのでいいや>笑

     

    4,電気ポット

     

    これ、なくてもぜんぜんいいんだけど、もっと入院が長引くならほしかった。

    寝られない時とか、温かい飲み物が欲しいなあと思うこと多かった。

    病院ではペットボトルばかりで、自販機のコーヒー系はあるけど、たまにはハーブティやほうじ茶とか飲みたかった。

     

     

     

    あとなんだろー。

     

    ってなことで入院最終日の午後がしあわせに過ぎていきます。

    怒涛の約2ヶ月でした。

    いろんなこと忘れずに、自分の「欠け」と向き合っていきたいなって思います。

     

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    「元に戻ること」と、「変わること」。そして変わらない明日が来ることの奇跡と。

    2018.07.26 Thursday 19:18
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      ドレーンが取れて、あれだけ苦しかった痛みが徐々になくなり、

      何もできなかった自分が、徐々に歩き、起き上がり、食べ、しゃべるという日常を取り戻しつつあります。

       

      人というのは不思議なものだなー。

      暗黒星雲の中にいたときには、余命の覚悟までして、それが神様のシナリオなら甘んじて受けよう、などと色んな思いをめぐらせていたのに、いざ、治療の可能性が見え始めれば、どんどん欲が出てきて、もっとよくなりたい、もっと生きたいと思い始めた。

      すごいなあ、生きる力というのは貪欲だ。

       

      私の病がわかった時は、みなとても心配してくれたけれど、

      私自身は、ガンの疑い→検査入院→ガン告知→PET検査→MRI検査と進んでいってるわけなので、その折々で

      「ガンはみつかったけど、さほど大きくないらしい」(少し安堵)

      →待て、でも転移しているかも。。。。。。PET検査の結果がでるまで不安不安

      「とりあえず目立った転移ないみたいだ」(ほっ)

      →待て、脳に転移あるかも。ってか脳梗塞とかあるかも。。。。。。結果わかるまで不安不安

      「脳も無事だったらしい」(よかったなあ)

       

      と、一つひとつ「よかったなあ、ほっとしたなあ」という体験をしながら、どんどんしあわせになっていった。

      セカンドオピニオンの予約取れた。よかったよう。

      いい先生だった。ラッキーだあ。

      入院も手術も決まった。ほっとしたなああ。

      友人がガンを知って、真剣に心配してくれている頃に、私はなんだか幸福を感じる瞬間が、そんなわけで結構あった。

       

      あとは細胞診の結果しだいで、抗がん剤の使用があるかどうか、というあたりの不安は残っているけれど、もうここまできちゃったらどうにもならんので、最初ほどうろたえなくなってきた。

       

      人ってたくましい。

      いや、あくまで私のケースは早期発見らしくてラッキーだったというのもあるかもしれないけれど。

       

      以前、ジャズシンガーの綾戸智恵さんが、

      「悩めるというのはまだまだ余裕があるってこと。ほんとの窮地にいる人は悩んでる時間なんてない。

       溺れそうな人が悩む? 悩んでたら沈んじゃうんだから、必死に泳ぐしかないでしょう」

      って言ってるの聞いて、なんかはっとしたことを思い出した。

      立ち止まって悩んでいられる時間の中で、何も幸福がみつからなかったとしても

      溺れないように泳ぎ続けている中では、ちょっとつかまる木があったとか、小さな島があったとか。ちゃんとみつかる小さな幸福感というのがあるのかもしれないなー。

      いや、偉そうなこと言えんけど。

       

      それで手術を終えて

      その時々で最悪だ、痛い、もうだめだと思いながら

      ひとつひとつ前と同じ日常が戻ってくれば、なんだかこれはこのまま、すっぽりと元に戻れるのかもしれない、という気持ちになりかけていたりする。なんというか、よくくも悪くもすごく安易に、知ってる形に戻ろうとしている。

      そんな「復元力」みたいなものが、元から人には備わっているのかもしれない。

       

       

      それで。

       

      以前の日記で書いたけれど、

      ここ数年、ちっとも泣けないのだったという日々のあとの、痛みや苦しみを伴う今回の手術や入院の日々の中で

      何もできず

      ただただ痛みと一緒にベッドに横たわりながら、窓から見える夜空や東京タワーの夜景をぼんやりとながめて

       

      それで

       

      私、おいおいと泣いたんだった。

       

      泣けたよ。

       

      泣いた。

       

       

      ぽろぽろと涙が止まらなくて、

      でも、どうして自分がいまこんな風に泣いているのかを思ったら

      なんだかちょっと、新鮮に驚いてしまったんだった。

       

       

      痛くて苦しくて

      でも、それで泣いているではないのだった。

       

      これまでは、必死に泳がなくちゃいけない中で、封じ込めていた悲しみや怒りや悔しさみたいないろんな感情が、どこかで澱のように溜まってしまっているんだ、と思ってた。

      頑張ってきた、よくやってきたという自分へのねぎらいみたいな気持ちもあって

      泣けるとしたら、そのこころのシャッターが開いて、堰を切ったように感情が溢れ出すのでは、と思っていた。

       

       

      でも

      東京の夜景を見ながら

      ぽろぽろ泣いていた私のココロの中にあったのは

       

      入院から術後のしんどい時に、最大限のことをしてくれたパートナーや息子や友だちのひとつひとつの行いや言葉と

      痛くて痛くて震えて動けない私のからだを拭いて着替えさせてくれたり

      髪の毛が気持ち悪いと言ったら、すぐにシャンプーしてくれた看護師さんや

      毎日はげましの言葉をかけてくれた先生たちや

       

      もう、なんだかよくわかんないけど、

      世界はなんて愛に満ちているんだって>笑

       

      ありがたくて

      ありがたくて

       

      それでおいおい泣いているんだった。

       

      そんな涙の前では、過去の怒りとか悲しみとか、自己憐憫なんてものは本当に矮小で

      それでもう

      なんだか自分は人生で十分にそんな涙を流してきたのだから

      これから先はもう、今日みたいな涙だけでいいいや、と思ったんだった。

       

      メンタル強すぎて雲の上の人みたいだけど、樹木希林がそんなこと言ってたなーって思い出した。

       

      ”人がうれしかったりした時に、
      泣くことが多いわね。
       
      悔しい、悲しい、
      で泣いたことはないわね。
       
      「なんてすてきなことを言うんだ」
      っていう時に泣けてくるね”

       

       

       

      足りなかったのは、そこだったのかなー。

       

       

       

      今日こんなことを書き留めているのは

      からだの調子が戻ってくると、気持ちも暮らしも「復元力」が働いて、昨日と同じ延長線の今日に戻ろうとしてしまいがちだけれど

       

      こんな体験めったにないのだから、感じたこと、経験したことはちゃんと覚えておいて

      昨日とは違う今日を生きられるようにも、したいなあと思ったから。

       

      早期発見よかったね、治っちゃうよ、すっかり元通りだよ

      と言ってくれる人たちもいるけれど

      それとはなんかちょっと違う気がしている、ってのもある。

       

      年をとって

      誰かに付き添ってもらって、たくさん時間を割いてもらって

      足を、からだを拭いてもらい、髪を洗ってもらい

      そんな「有り難い」ことを当たり前と思うような年のとり方を絶対にしない、とも思ってる。

      去年の父の入院から介護、お葬式までの間の殺伐とした時間も、私の涙を止めていた理由なのかもしれない。

      だから、ちょっと陳腐な言い方だけれど、今回のことは神様から私への贈り物なんだと思う。

       

       

      同時に

      まだまだ先のことはわからず

      これから自分がどれだけ生きられるかもわからないけれど

       

      今日と同じ明日が当たり前のようにめぐってくることの奇跡みたいなことも

      忘れずにいようと思ったんだった。

       

      生きるって不思議で、愛おしいね。

       

       

       

      ということで、ちゃんと泣けたよ、というお話でした。

       

       

      今日もぽろぽろ泣いて寝る。

       

       

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      思ってたのとはなんか違うんだけど、それでもなんかいろいろすごいな、って思う。

      2018.07.24 Tuesday 13:18
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        手術終わり、やっと人心地がつき、パソコンなんかに文字が打てるようになった!

         

        5日前の手術後にはもう永遠にそんな日はこないんじゃないかと思ってた。

        4日前はなんの罰ゲームなんだ、何も悪いことしていないのに、とひたすら痛い痛いとベッドで動けず

        3日前にこれまたなんの罰ゲームですか、こんな状態で離床しろと?と、人生で一番ひしゃげたよれよれの姿でトイレ行きの苦行に取り組み

        それでも2日前には少しづつ人のような形に戻り、看護士さんが体を拭いてくれて夜にはパソコンで映画を見れるようにまでなり

        昨日は看護士さんが髪の毛を洗ってくれて、ややヨレヨレ状態の自分にやっと戻ってきた。

        今日、まだ肺に挿入された3本のドレーンは抜けていないけれど

        どうやらこれは順調という経過らしくて、ちゃんとしていれば数日後には退院できるのだそうだ。

         

        胸腔鏡での施術なので傷跡は小さいけれど、肺に挿入されたドレーンからは、ずっと血と空気が手元のタンクに回収されていて、それをずっと引きずりながら歩いている。

        かなりスプラッタな状態なんだけど、私の場合はドレーンの痛みと、麻酔中に無理な体勢を取っていたらしく、それで右手が上がらず、動いたり咳をするだけで激痛が走って、それが一番辛い。

        今日やっと、右手が少し上がるようになってキーボードが打てた。

        それまでは、スマホの操作もできなかった。

         

        我慢するな、とみんなから言われて、我慢せずに痛い痛い、と言い続けているけれど

        緩和にも限界があって、やっぱり痛いものは痛い。

        人一倍、痛いのが苦手なのに。。。。。。

        でも、それも日を追うごとに少しづつ、ちゃんとよくなっている。

         

        人間ってすごい。

        っていうか、それを含めて

        医療ってすごい。

         

        療養だけでなく

        どんどん歩いて、しゃべって、リハビリすればするほど早く帰れるというので

        文字も打ってみることにしたんだった。

         

         

        今回、ガンのことを思い切ってこうして書いてみて驚いたのは

        「私も同じ病気でした」と伝えてくれた知人友人が驚くほど多かったことだ。

        え? そんなん、ぜんぜん知らなかった。

         

        同じガンでした、と伝えてくれた人もいた。

        え? こんな辛い手術したの?

        私なら大騒ぎしてるよ(ほら、こうして実際に>笑)、ちっとも知らなかったよ。ごめん、ほんとにごめん。

         

         

         

        語られない病と

        その中で、十人十色の病との物語があるのだなあ、と思った。

        なんか、深く深く、感じ入った。

         

        もうずいぶん前にガンで手術をしたということだけを聞いていた友人が

        当時のこと、家族への対応や思いを、改めて語ってくれたこともあった。

        幼い娘には言えなかった。

        親には伝えなかった。

        告知を受けたとき、両親がすでになくなっていて、本当によかったと思ったのを覚えている。

        。。。。。

        いろんな言葉があった。

        人の気持の奥深さに、ちょっと見がすくむ思いがした。みんな違って、でもみんな真摯で、すごい。

         

        そんなことについては、また改めて考えてみたなーって思ったりする。

         

         

        ほいで、今日はそうやって聞いたことの中で、話が違うじゃんよー! って思ったことについて>笑

         

         

         

        実は病気がわかるちょっと前、友人がガンになって手術をした。

        それを知ったとき、私はすごくショックで、それですごく心配で

        もうひとりの子と一緒に退院2,3日前の頃にお見舞いに行ったんだった。

        どうだった? 大変だったでしょ。痛かった? 抗がん剤は打つの? 

         

        いっぱいの気持ちで会いに行ったら、彼女、スウェット姿で病室でパソコン仕事してて

        あれー? ありがとう、平気平気、もうぜんぜん平気! と出てきて

        待合室で「眠ってたら手術終わっちゃうし、終わったあと1日ぐらい痛かったけど、あとは平気だよー」とさらりと言うんだった。

         

        え、一日痛いだけなの? 

        えー、そうなんだ。今はすごいねえ。

        「うん、抗がん剤も必要なし。ちょっと休んだら仕事復帰するよー」

        そりゃあよかったねえ。

         

        別の日、やはりガンで復帰したばかりの子と食事をしたら

        「いづみちゃん、手術は寝てる間に終わっちゃうから。いづみちゃんは何も頑張らなくていいの。

         頑張るのは医療関係者のほうだからね。いっぱい甘えて、いっぱい優しくしてもらってきてね。

         病気の子は、優しくしてもらっていいんだよ」

         

        と言われ、涙が出るほど安心して、そのときに

         

        「あのね、手術終わったあとの爽快感ったらないから! 悪いもの取っちゃったら気分いいから!

         それ楽しみに行ってきてね」

         

        と言われたんだった。

         

         

        それで、私の脳内には

        「痛いのは翌日だけ」

        「終わったあとの爽快感ったらはんぱない」

        という言葉がインプットされたんだけど

         

         

         

        手術終わって麻酔さめたときの、あの

        「おれに何したーー!!!??」

        的な筆舌に尽くしがたい痛みの洪水のち、5日目の今は

         

        「痛いの一日だけって、なにそれー!」とか

        「爽快感ゼロですが、爽快感ってなに、それ食べられるの?」的な思いだけが残っとります。

         

         

        手術は成功して順調に快復しているんだけど、

        一口にガンといっても、できる場所も、治療法も、ステージも、その人の痛みへの感応や思いも、みんなぜんぜん違うわけで、やっぱりそれぞれの体験があるだけなんだなあ、というのが今の感想。

        当たり前といえば、当たり前の話なんだけど。

         

        あ、ごめんね、これらを教えてくれたお友だちには、それぞれのそこからの体験があったわけなので

        違うじゃんよー! と彼女たちに言いたいわけじゃなく(苦笑)

        みんなそれぞれの思いはいっぱいしているはず。

        んで、忘れちゃいけないのは、そんなに痛くないよ、爽快だよと言ってもらえたことで

        手術までの自分がどれだけ心安らかにいられたか、ということ。

        ほんとありがとう。ありがとう。

         

         

        大丈夫、って言葉の持つ力は大きい。

         

         

         

        あ、ごめん、すげー痛い辛いと書いてしまった。

        そういうことも、ある。

        そう覚悟して臨んだら、さほどでもないじゃん、話違うじゃんよー! って人もいるかもだから

        そんな感じで許して。

         

         

        そしてもう一つの、話違うじゃんー! は

         

        えっと、なんかテレビドラマとかでは手術室入るとき、なんかストレッチャーに乗せられてガラガラと行きませんかの。

        そんで、そこに家族とか付き添って、頑張ってね! と手をにぎるとか。

        てっきりあれだと思ってたら、別に重病でも事故でもないので、手術は歩いて行くことを知って軽く驚いた。

        なんたって、人生で手術なんてしたことないんじゃ!

        (出産の時だけ。でもあのときは陣痛でもがいてたから、ストレッチャーで運ばれたんだった)

         

        手術着に病室で着替えて、スカスカの手術着の下はT字帯というふんどしヒラヒラという恥ずかしい格好で外来の人々の中をかき分けて歩いて手術室前ホールにGO!

        家族友人とバイバイ〜と歩きながら手を振って中に入ると、看護師さんと数人+患者で立ったままミーテイングみたいになり(それが一度に数組行われていたりする)

         

        あとはずらりと並ぶ手術スペースに案内され

        ここ寝てねーってベッドに自分で寝て

        天井の照明とか計器とか、そりゃもう楽しむしかないよなーと思って

        「ERとかドラマで見るのとほんと同じなんですねー!」とか軽口叩いているうちに、脊髄に麻酔入れられて瞬時に記憶がなくなり

         

        その後、気がついたら、胸に竹槍でも数本刺したんですかっ!!!  をい!!!

        ってな状態でわれに帰ったという>笑

         

         

        いやー、すごいな

        もうちゃんと笑い話しにできるようになってきた。

        余裕でてきた。

        ほんと、人間すごい。医療すごい。

        改めて。

         

         

         

        という感じで、まだまだ加療途中ですが、ここまで快復してきました。

        書きたいことはいろいろあるんだけど

        この章はここまで。

         

        (追記。私はガン治療は「標準治療」を基本に考えていて、その中で医師と病院を慎重に選んで決めていく、と思っているので、その意味では今回は経過も順調だし、すべてに納得して医師を心から信頼して治療してもらっているので、ご心配なくお願いします! 

        ただその中でも、痛いーとか、ふえー! ってのはあるわけで、それ書いてますー)

         

        また(勝手に)書きます。

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        長いことずっと泣きたいと思っていたのに、泣けなかったのはなぜなんだろう

        2018.07.18 Wednesday 13:21
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          何年ぐらい前からだったかなー。

          私、なんだかすごく泣きたいんだ、って思ってた気がする。

           

          心のどっかで、いつも泣き出したいような気分なのに、ちっとも泣けなかった。

           

          涙活って言葉が流行っているけれど、どこかまでの私は、ストレス解消によく泣いていた。

          一番泣ける映画を準備して、水やお茶をいっぱい飲んで、朝からごろごろストーリー全部わかっている映画見ながら、おいおい、うおーうおーと泣いて、それで心がリフレッシュして、ちょっとしたカタルシスを味わう、なんてことがよくあった。

           

          それが、どこからか、心に蓋が閉まったような感じが続いて、泣けなくなった。

           

           

          ときどき、ふと、夕暮れの街なんかを歩いていて

          足が止まって、ああ、この不思議な感覚は何なんだろう、と思う。

          それで、気づく。

           

          あ、私、泣きたいんだ。

           

           

           

           

          胸の奥のあたりから、うぉーって声をあげて泣けたら、どんなにいいだろう。

          ぽろぽろぽろぽろ涙が溢れて止まらなくなったら、どんなに爽快だろう。

          でも、泣き出しそうになる途端、心にシャッターが降りたようになって、泣けなかった。

           

           

          それ、たぶん、2011年の3月からだったと思う。

          東日本大震災のあと、自分の心の中で何かが止まってしまったまま、動かなくなってしまったように思う。

          最近、それに気付いて、

          その止まってしまったものは一体何なんだろうって考えていたところだった。

           

           

           

          今回、病気がみつかって

          体中がシェイクされたような激震を味わって

          それでも、なんだかちっとも、泣けなかった。

           

          おともだちに

          「心を許せる人の前で、思いっきり泣くんだよ」って言われて、はっと気付いた。

           

          ぜんぜん、泣けないのだった。

           

           

           

          ここ数年の、泣けなかった間、ふとした瞬間に、たまに口をついて出る言葉があったの、今思い出してる。

           

          「パトラッシュ、ぼく、もう疲れたよ」

           

           

           

           

          子育てして仕事して、親の死を見送って、残った親の面倒を見て、そして自分の夢みたいなものにも目を向けて。

          50代って、もう、人生のいろーんなことが一気に「まとめ」に向かっている時期だったなあと思う。

          友達に恵まれて、いろんな機会に恵まれて、仕事もあって、

          子供が成長して、どんどん環境が変わって新しい経験に身を投じていたときには自覚していなかったけど

          たぶん、いっぱいいっぱい、疲れは溜まっていたんだろうな。

           

           

          病気がみつかったあとは、検査や手術する病院を決めたり、準備することであわただしく、気持ちも落ち着かなくて、本当に泣いている暇なんてなかったんだけど、たまに、ふと、ああ、大声をあげて泣きたいと思うことはあった。

          それでも、ちっとも泣けなかった。

           

          だから入院したり、手術したり。

          そんな中で、どっかで、思い切り泣けたらいいのかもしれない、って思う。

           

          ちゃんと、泣いて

          閉まってしまっていた気持ちのシャッターみたいなものを開けて

          また、自分に向き合っていく。そんな時期なのかもしれないなーって思ったりしてるけど。

           

          どうなんだろう。

           

           

           

           

          そういえばね

          5年前に誤診で肉腫の疑いと言われて、まだいっぱいやりたいことがあったのに!! ってうろたえたことは前のブログで書いたけれど、そのときに、もう一つ心の中で渦巻いた声があった。

           

          それまで、私の周囲でいろんな人の噂話をするのが得意な知人の、こんな声だった。

           

          「あ、あの人もねー。いろいろあったでしょ。あれじゃあ病気にもなるわよ。大変ねええ」

           

           

           

          実際に言われたわけじゃぜんぜん、ないのに、頭の中で渦巻いた。

          それまで、病気になったり、トラブルを抱えた知人たちを、

          「あーーー、あの人もねー。大変よねー」と言いながら、噂話をするのを何度も聞いてきたから

          ああ、私もそう言われるのだ、と勝手に思った。

           

          それで、

          ああ、もう

          そんな風にだけは言われたくない! って強く強く思ったんだった。

           

           

          私、ちっとも大変じゃないもん。

          かわいそうじゃないもん。

           

          大変でもかわいそうでもない場所から、簡単に哀れんだ目で語られたくない。

          そう、強く思った。

           

           

          何なんだろう、弱ってしまったときの、心の中に生まれるこういうダークサイドみたいな部分って。

          気にする必要のない人、気にする必要のない、しかも架空の言葉に、こんなにもダメージを受けるって、なんだかとても驚いた。

           

           

          とにかく、5年前の私は、大変で、かわいそうだと憐れまれたくなかった。

           

           

          でもね

          今、それ、ちっとも気になってない。

          言いたければどんどん言って、って思う。

           

           

          だって、ある意味、今、ほんとにそうだと思うもん。

          いや、悪い意味ではぜんぜんなく

           

          やりたいことはどんどん手をつけて、後悔しないように生きてきたけれど

          その中で

          弱くて、大変で、疲れていて、心にシャッター降りちゃって泣くに泣けないでいる自分が明らかにここにいて

           

          だから

           

           

          自分はちゃんとそれに向き合わなくちゃいけないんだな、って。

          あとは

          そんな自分に、まわりの人にも向き合ってもらっていいんだな、って。

           

           

           

           

          なんでも後付けで都合のよい意味を見出すことは、あまり好きじゃないけど

          いま、病気に意味があるのだとすれば

          きっとそんなことなのかもしれないなーって、そんなこと思いながら、明日から入院してきますー。

           

           

          ドキドキだああ。

           

           

           

           

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          「人生のシナリオは誰が決めるんだろう、ってことについて」の後編

          2018.07.14 Saturday 21:53
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            誰も待っていないだろうけど、前半に続き後半。私の人生のシナリオは誰が書いているのか、ということについて。

            前半はここ

             

            ガンとわかって、その全容がまだわからない時間は暗黒星雲の中にいたけれど、それでもなんだかおもろいなあと思うことは多かった。なので、それを書いてみている。
            たとえば、こんなこと。

             

            私はいつもは、定期検診を12月に受けてる。

            昨年も12月だったから、普通なら今年の検診も12月に行くはずだった。

             

            その検診を、ふいな出来事で6月に変えた。

            それで、ガンがみつかった。

            その出来事ってのはこんなこと。ほんと、些細なことだけど。

             

             

            12月の検診でLDLコレステロール値がかなり高かったので、4月の頭に血液検査の予約を先生が入れていた。

            律儀にそれに行ったら、もう薬のもうね、ってことになり、薬が1ヶ月分出た。

             

            気が乗らなかった。薬嫌いだから。

            いやだいやだ、と思って飲んだからか、腹痛や胸焼けの副作用が出た。

            気分が悪いのでそのまま飲むのをやめ、5月に再度入れられていた予約日に病院に行き、「薬合わないから変えて」と言った。

             

            「また合わないと困るから、じゃあ今度は1週間分だけ出すから、また来週来て。副作用なければ1ヶ月分出しましょう」

            というわけで、別の薬の処方箋もらって帰ったんだけど。

             

            帰り道で本当に気が乗らなくて、薬もらわずに帰っちゃった。

            なんか、ほんと薬飲みたくなかったんだと思う。金曜日だった。

             

            それでも1週間後の予約はせまっているので、翌週に処方箋を持って薬局に行った。

            そしたら

             

            「処方箋の有効期限は4日なので、薬はもう出せません」

            という事態に陥った。

            土日を挟んでいたので、あっという間に期限切れになったらしい。

             

            うへー。次の予約まで3日。

            薬出ない。

            予約行ったらまた処方箋書かれて、また来週受診。

            もうやだ、めんどくせー。

             

             

            予約のあった金曜日の朝

            もやーっと悩んで

            私、黙ったまま病院行かなかった。

            すみません。

             

             

            そこから、はじまってた気がする。

             

            (↑人生って美しいねって書いてある、セーヌ河岸の看板)

             

            なんやかんや言って、やっぱり気になった。

            うちの家系はほとんどが脳梗塞やアルツハイマーで、「動けないまま死なない」末路をたどっているので、LDLコレステロール値が高いというのは、やっぱり恐怖だから薬は飲まないとやばいんじゃないかと思った。

             

            でも、黙って予約をシカトしたことが後ろめたくて、再診の予約をが入れられない。

             

            そこに、今年の特定健診のお知らせが来た。

             

            こりゃちょうどいい! と思ったんだった。

            これ口実に病院行けばいいじゃん。

            ほんで、薬出してもらえばいいじゃん。

             

            いつもは12月だけど、いいや。

            6月1日から予約可能という案内を見て、6月9日に予約を入れた。

             

            いつもの主治医の先生の検診日だと、シカトが後ろめたいので、先生のいない曜日に。

             

             

            で、その検診で、いつもの先生が「影あるねー」って放置してた場所に、別の先生がガンをみつけた。

             

             

            もし、あの日の帰りにさくっと薬局に寄って薬をもらって、

            翌週の予約で「副作用ないから薬出して」と1ヶ月分の薬をもらっていたら

             

            私、6月に健診なんて受けていなかった。

            12月までほっといて、たぶん今頃7月に予定していたフランスに1ヶ月滞在していた。

             

            12月まで放置してたら、それを見るのがいつもの先生だったら、どうだったんだろう。

            いや、もっと前にわかってたかもじゃん、って考えもあるけど。

             

             

             

             

            ま、そこまではなんだか、偶然だねーという話。

             

            ここから不思議なことがいろいろ続いていく。

             

            6月9日の夜から電話が狂ったように鳴り続け、取ったらすぐに診療して! とあわてた先生の声があり、

            なんかよくわかんないままに翌週に診療予約を入れて、このときはガンなんて言葉は一言も出なかったので、いったいなんじゃらほいと思ってた週末。

             

            11日に荷物の受け渡しがあって、急遽大学時代の友人に会うことになった。

            彼女はステージ4のガンで抗がん剤治療中なんだけど、いつも本当に明るくて、前向きで、どんだけ彼女にたくさんのことを教わってきたかわからない。すごい尊敬している友人。

             

            その彼女がサプライズで、誕生日を祝ってくれたんだった。

            ケーキ食べてお花もらって、そんでおしゃべりしながら、私、こんなことを彼女に聞いた。

            「どうしてステージ4でそんなにいつも前向きなん? 私、もし自分がガンだと言われたりしたら途方にくれる。絶対そんな風になれない。どういう秘訣があるの? なんでなの?」

             

            その時、彼女が教えてくれたのが

            「眠ること」の大切さだった。

             

            そして、彼女が実践している「眠る」ための秘技と(笑)工夫について伝授してもらった。

            どんなことがあっても、とにかく寝る。眠りの質は確保する。

            ぐっすり寝て朝が来れば、気持ちもまた変わっていく。寝るのってすごく大事なんだよー! って。

             

            へーへー、すごいね!

            それすぐやってみる! 病気でなくてもほんとに大切なことだね。全部ためになるなー。

             

             

            その工夫が

            まさか翌日まんま、必要になるなんて夢にも思わなかった。

             

             

            無邪気に「パジャマかわいいの買おうっと」「寝る時アロマ炊こうっと」「寝る前にテレビ見ないようにしようっと」なんて思って帰った翌日、予約診療で行った病院で「肺腺がんの可能性」と言われて、緊急で紹介状をもらう羽目になるなんて、思ってもいなかった。

             

             

             

            でもね

            その夜

            私、寝られたの。

             

             

            彼女に教わった通りのことをして。

            本当に眠れた。朝まで。

             

             

            なんか、すごい、と思った。

            神様みたいなもんが、ちゃんと、前日に偶然ひょんなことから彼女に会えるようにしてくれたんだ、って思った。

            ありがとうございます。

             

             

            さて、まだ続くよ。

             

            その翌々日。

            もうかなり前から約束していた食事会にでかけた。

            気持ちは沈んでいたけど、久しぶりだし気晴らしになるし、楽しみにでかけた。

             

            揃ったメンツを改めて見渡して、ちょっと新鮮に驚いた。

            医療に詳しいさまざまな分野にいる子ばかりだった。

             

            自分のことを話すつもりはなかったけれど、帰り際にちろりと聞いてみた・

            「もし私がガンになっちゃったら、病院とか紹介してもらえたりする?」と。

             

            えー! なにごとか、という話になり、ほんとにありがたいことだけれど

            全力で探すから、力になるから。応援させて。大丈夫、1人にしないから、って言ってもらえて

             

            うえーん。

            まだわかんないけど。

            でも、もしそうだったら。

            お願いします、これからのこと報告するから。

            それで、なんだか心細くて仕方なかった気持ちが、ちょっと落ち着いたんだった。

             

             

            なんだったんだろう、ちょっと前から決まっていたこの食事会って。

             

             

            その翌日、紹介された郊外の病院に行って、ガンの可能性が高いので検査入院をするように、と入院手続きをした。

             

            夢見心地のまま、その帰りに、ずっと前から約束していた、親友との誕生会に出かけて

            事の次第を報告しながら、どーしよー、どーしよー、いや絶対だいじょうぶ、もうとにかくなんでも力になる! と手を取り合ってはげましてくれた彼女が誕生日にくれたプレゼントは

             

             

            アロマだった。

             

             

            それ、もう1ヶ月前ぐらいに彼女にプレゼントの希望として私が頼んでいたものだった。

             

            なんで私、知ってたんだろう、アロマ必要って。

             

            友達に教わったとおりの方法で、アロマのちからで寝てたから、もうここ数日。

            いつから、何がつながっていたんだろう?

             

             

             

            ありゃ描き始めたら止まらない。

            まだ続くのよ。

            もう飽きたら見るのやめていいよ。

             

             

            さて、ここからいろんな検査ぢごくみたいのに放り込まれながら

            一方で、応援団を名乗りでてくれた友人に本当に助けられた。

             

            前半の記事で、5年前に肉腫の疑いと言われて腰抜かして慟哭したことを書いたけれど、あのときにした一番の失敗は、ネットで情報をしらべまくってしまったことだ。

            若くして亡くなった、無念のまま逝ったというような人の話ばかりが目に飛び込んでくる。

            もしくは、生存率が低い、治癒の可能性ほぼないという記述も飛び込んでくる。

            あれに、やられた。

             

            なので、今回はもう、絶対にネットサーフィンしないと決めた。

            自分では、調べない。っていうか、今の状態では、調べらんない。

             

             

            私がただひたすら検査ぢごくに陥っている間、彼女はほかの友達と連絡を取り合いながら、セカンドオピニオン候補の病院をリストにして持ってきてくれた。

            景色のいい場所でおいしいごはんをごちそうしてくれながら、ていねいに、ていねいに説明してくれた。

             

            そのうちのひとつにセカンドオピニオンの予約を依頼したら、1週間後にするりと予約が入り

            相談できた日に、そこで手術する、と決めたら、10日後が入院と手術の日になった。

             

             

            家の電話がガンガン(おやじギャグでは、ない)なり続けた日から、手術予定日まで1ヶ月と10日ほど。

            長かったのか、短かったのか、もうよくわかんない。

            あとは入院して手術するだけ。

            今、ここ。

             

             

            なんだろう。

             

            きっと全部偶然なんだと思う。

             

            でも、それにしてはすべてのことが、一日きざみで動いていた気がする。

            未来が見えない暗黒星雲の中でもがいていたけど、その中でなにかの希望があったとしたら、いろんな偶然がこうして重なっていくというのは、きっとそれが、神様のシナリオなんだと思えたからかもしれない。

             

            病気になったことは不運だけれど、不運を運ぶ何かに、私を守る何かが応戦していて、それがこうした偶然を運んでくるのだとしたら、根拠レスだけど、きっと今回は大丈夫、と。そんな風に思えたりもした。

             

            ぜんぜん達観してないけど>笑

            でも、そんな風に思えるほうが、きっと幸福なんだと思ってる。

             

            ああ、そういえば、3月に北九州に講演に行った折、私、空港で段差にけつまずいて激しく転んで、右側面の胸からアスファルトに激突した。こんなこと初めてだった。

            経験したことのない痛さで、これは肋骨が折れたかヒビが入った、、、、と確信して、翌日にいつもの病院(特定健診しているところ)の整形外科に行って、右胸のレントゲンを撮ったんだった!

             

            あれも、どっかで何かが「そこ見てやってくれよおお」ってサイン送っていたのかしら。

            結局、肋骨の下のところだけを整形外科医が見たので、肺がん見逃されてたけど。。。。。。

             

            こじつけかもしれないけど、おもろいなあ。

            誰が、何が、私を守ろうとしているんだろう。(病気にはなっちゃったから、守りきれてはないけれど>笑)

             

             

            十分長いけど、最後にもうひとつ。

            私にとっては、これが一番不思議なこと。

             

             

             

            応援団を名乗り出てくれた子に、「どこか病院の希望ある?」と聞かれたとき、私、

             

            「前に友達が入院してたところがホテルみたいにきれいで快適で、私、入院するならここって思ってたの。5年前に子宮肉腫の疑いで誤診されたときにその病院でセカオピ取ったんだけど、そのときもすごくいい対応だったの。だから○○病院を候補の一つに」

             

            そかそか、わかった!

             

             

            それで、彼女はその病院と、ほかに呼吸器外科の評判のいい病院をいくつかと医師の名前、セカンドオピニオン費用や差額ベッド代までを細かくを調べてリストにしてくれたんだった。

             

            いろいろ調べた結果、私が聞かれて名前をあげた病院は、いろんな人がすごくいい、と言っているというので、とりあえずはそこにセカンドオピニオンの予約を入れることにした。病室がきれいというのも大きな魅力だし。

             

            電話で予約を取るとき、以前にかかったことがあるか聞かれたので、5年前に婦人科で! と元気よく答えたら

            「いや、もっとすごく昔ですね、こちらの電話番号ですね」と言う。

            都内03から始まるから私の番号じゃない。

            ちがうちがう、それ私じゃないです。

            「そうなんですか。同姓同名、誕生日も同じです。不思議ですねええええ。あ、もしかして分院かも?」

             

            あ、それですそれです。

            きっとそれです。青山のほうです。

             

            「???? 青山じゃないですよ。もしかして他の病院と間違えてらっしゃるかしら?>笑」

            えー、そんなこと絶対ないです。おかしいなあ。

             

             

            それでも予約は取れたので、あれれ? と思って診察券を探した。

            探したら、出てきた。

             

            病院の名前が、ぜんぜん違った。

             

            私がホテルみたいで絶対ここがいいと思っていたのは、■■病院で

            それを何故か私、○○病院と勘違いしていたんだった。

             

            どこでどうすり替わったんだろう??????

            あー、たぶんその病院名は、私が息子を妊娠したときに調べに行った、前の会社に一番近い病院だ。人生で一度だけしか行ったことがない。しかもホテルみたいでもなんでもない。なぜその名前が出てきたのか、皆目検討がつかない。

             

            どこで何がすり替わっちゃたのかわからないけど、○○病院には私の病気では名医と言われるひとがいたらしい。そしてその先生を、私は第一印象でかなり好きになった。狐につままれたような気分だ。

             

            その病院はボロい。

            最初に行っていた病院より、ボロい。

             

             

            そんでも、なんだか最初に通っていたところより

            今のところのほうが、行くのが楽しくて、古いのがぜんぜん嫌じゃなくて

            そういうの含めて、なんだかおもしろいなーって思う。

             

             

            いろんなことが、不思議と重なっていった1ヶ月だった。

            最初の頃は、もう本当にヘタれてだめだと思っていたけど、今、手術が決まったらちょっとふっきれた。

             

            まだまだ、もうちょっと「おもろいなあ」と思ってることはある。

            それは、また書く。(勝手に)

             

             

             

            やっぱり、時間が経ってくるとしっかりとまとめたようなこと語りだすなー>笑

            私がいろいろ聞いて、すごいなあ、えらいなあなんて思っていたのは、こういうことなんかもしれないなー。

             

            まだごちゃごちゃしていて

            やっぱり時々、怖くなる。

            そして、ちょろっとした暗黒星雲に飲み込まれそうになる。

            前に友達が

            「手術が終わったあとの、すっごい爽快感、あれ絶対味わえるから!」って言ってたけど、そうなのかな。

            そのあとの暮らし、人生、どんな風に変わっていくのかな。

             

            まだぜんぜんわからないけど、とりあえず目の前にあることをひとつづつ。

             

            また書くね。

             

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            運勢、運命、宿命みたいなもの。人生のシナリオは誰が決めるんだろう、ってことについて。

            2018.07.14 Saturday 00:34
            0

              30代のときに、「宿命大殺界」という細木数子の本を読んでしまい(まさに、読んで”しまい”)、そこで私の宿命大殺界は58歳だということがわかった。

               

              細木大先生によると、人生には12年毎の大殺界があるが、誰にも人生で一度だけ、その中でも一番ダメージの大きい大殺界が来るときがある。それが宿命大殺界。

              これが50歳を過ぎた頃にやってくる場合は

               

              あなた、死ぬわね

               

              ってことだと書いてあった。若いときは乗り切れる苦難も、もうその年になったら乗り切れずに人生が終わる。ま、あきらめてくださいってことらしい。

               

               

              細木数子大先生などまったく信じていなかったけれど、「死ぬわね」と言われたら気になる。

              それで、自分にとってはなんとなく58歳というのは節目だなあと思っていたところがある。いったい何が起こるんだ!? と。

              私の予想では親の介護や死にまつわることだろうなあ、とぼんやり思っていた。うちは親がいろいろ問題を抱えていたので、まあ、そういう面倒なことに巻き込まれるわけかな、と。

               

              もうひとつ。

              ある時から私の手相の生命線の上に、ぽつりと脂肪瘤のような小さなおできができた。

              気になってひっかいたり、むしったりするのだけれど、なくなるどころかどんどん大きくなり、最近にいたってはカッターで削ったりしてみたりもしていた。アホか。

              でも、生命線上のできものは、病気や怪我などによる生命の中断を意味することもあるので(って、手相は多少かじった)、気になるじゃないか。それが、年齢的に宿命大殺界の58歳を示すあたりにできて、生命線を大きく分断しているなら、なおさら。

               

               

              というわけで、私がガンの告知後に不安定になったことの理由は、上記のようなこともあった。

               

               

              終わりかー。

               

              これだったのかー。

               

               

              もうちょっと生きたかったなー。

               

               

               

               

              占い、信じてるわけじゃないのに、なんだか一度聞いてしまったら、こういう符号はダメージになるもんだなー。

               

               

              私の計画では、自分の人生は72歳と決めていたのだった。

              なぜかわからないけど、いろんな運気が周期のように回ってきた人生を振り返ると、次にぐるりと回って戻ってくる72歳っていうのが、店じまいの幕引きにはちょうどいいなあ、と。

              なんかそんな予感のような決意のようなものも、あった。

               

              なので、なおさら、凹んだ。

              まだ14年あるのにー、と。

              早いー! これから少しづつ店じまいの準備をしようと思っていたのにー。

              突然すぎて追いつかないよー! と。

               

               

              なんか、いまさら書いてみると笑い話に聞こえるなー。

              大殺界とか手相とか。

              あほみたい。

               

               

               

              でも、一度聞いてしまったこと、一度気にしてしまったことは

              今回のようなことがあると、なかなかそこから自由にはなれないものだ、と思った。

              迷信や信仰や、その他もろもろ、なんか運勢や運命や宿命みたいな言葉で表されるものの持つ力は、意外と大きいもんだ、と思う。

               

               

               

              さて、そんな前置きから何を話したいかというと、

              今回ガンがみつかって、その後じたばたしていた間にあった、あれこれの不思議なこと。

              なぜ今みつかったんだろう、ってこととか

              神様はどんなシナリオを私に書いているんだろう、ってこととか。

              ほんとに不思議だなあと思うので書いて残しておこうと思う。

               

               

              長くなりそうな予感。

              途中で後編に行くかもしんない。

              読んでくれている人がいるのかどうかもわからないのですが、ほんとすません、勝手に長くなります。

               

               

              ときは5年前にさかのぼる。

              2013年に、いろいろ思うところあって息子とアメリカに滞在した。

              しかも、そこで大学に4ヶ月通った。ビザ取って。

               

              それが、本当の本当に大変だった。

              あそこまでのストレスって、やっぱり人生の中で最大級だったように思う。

              細胞破壊されて、ダークサイドに落ちて、ボロボロになって帰ってきた>笑

              ま、それもいい体験だったけど。

              で、息子はそのままアメリカに残って、いい体験をたくさんしていい青年になった。

              ほんとそれ、よかった。

               

              でも、私はボロ雑巾になった。

               

              で、そんなボロ雑巾で婦人科の検診に行ったら、いつも先生がやめてしまって、新しい若い女医さんが、しれーっと

              「子宮肉腫の疑いがあります」

              とぬかした。

               

              なんすか、それは?

              彼女は私に目を合わせようともせず、ただ

               

              「悪性かどうか調べようがないので、6ヶ月後にまた来てもらって、大きくなってたら検査しましょう、はい終わり」と言った。

               

               

              ようわからんまま帰宅して、

              ネットで「子宮肉腫」と調べて、

              私、文字通り腰が抜けてへたりこんでしまった。

               

              最初に出てきたのは「妻が亡くなりました。頑張りましたがだめでした。子宮肉腫でした」というブログだった。

              へ?

               

              そのあとはぞろぞろと、治癒不能的な情報が羅列され

              読んでいるうちに貧血状態になり、そのままソファに倒れ込んで動けなくなった。

              なにそれ?

              子宮がんとか、子宮頸がんとか、それでもショックなのに、肉腫ってなに?

               

               

              あの衝撃は、すごかった。

              今より、ずっとすごかった。

              なんの予測も準備もなく、ただ突然、自分の人生の終わりを告げられたように思った。

               

              あの日、半泣きで数人の友達に相談し

              うちにすっ飛んできてくれた親友と

              電話でたくさん話しを聞いてくれた大切な友達と

              セカンドオピニオン先を紹介してくれた友達たちのしてくれたこと、私絶対忘れない。

              本当にありがとうございました。助けられた、救われた。

               

               

              結果的に、そんな悪いもんを6ヶ月大きくなるまで何もせずにほっとけという対処が全く納得できなかったので

              友人に紹介してもらった医師に予約を取り

              (普通なら2ヶ月先という予約が、ひょんなことから10日後に取れるという奇跡が起きた)

              あっという間にCT等の検査をして

              「エコーみるだけでわかります、これ、悪性のわけないから」とさらりと笑顔で診断してもらい

              「6ヶ月待って検査ってね、この場所は細胞診なんてできないから、検査ってもう手術のことよ。なのでその診断はまったく現実的じゃないです。大丈夫、CTの結果見ても、なんの心配もなし!」

              「本当に辛い思いをしたね。今日は帰って、美味しいもの食べて、ゆっくり休んでくださいね」と

              神様のような優しい言葉をかけてもらって、この騒動は終わりになった。

              本当にいい先生だった。

               

              重ねて言うなら、なぜその医師を紹介してもらえたのかというと

              その10日ほど前に、友人がその医師の病院に入院して婦人科系の手術をしたのをお見舞いしていたから。

              ホテルのように素晴らしい病院で、私も病気にあったらここに来ようと思った。

              その矢先の婦人科系での告知だったという、タイミングのよさだった。

              そしてこの病院との関わりも、今回のガン告知と微妙につながっている。それはまたあとで。

               

              というわけで、この子宮肉腫事件は

              なんだよ、それ、たちの悪い誤診最悪!!! という笑い話で終わったかのように思ったこの顛末だけれど

               

               

               

              私、最初に肉腫の疑いと言われたとき、強烈に心に渦巻いた気持ちが、忘れられなかったんだ。

               

               

              ”なんで? まだやりたいことがいっぱいあるのに! 行きたいところも、してみたかったことも

              まだまだたくさん、それ、全部できないまま終わるの?”

               

              そして、なんで病気になってしまったのかを考えた。

               

              ”やっぱりアメリカなんか行くんじゃなかった。本当に行きたいところ、したいことをするべきだった。

               私、フランスに行きたかったじゃないか。英語じゃなくてフランス語。勉強じゃなくて美術。

               自分を偽って辛い思いをして、それで病気になっちゃった。そんなのやだ!”

               

               

              ある意味、私の人生、そこから大きく変わったように思う。

               

               

              「いつか」 

              と思うことをやめた。

               

              「役に立つから」「便利だから」「そのほうが都合がいいから」といった言い訳を

              全部やめた。

               

               

              一番したいこと、一番行きたい場所、一番自分らしいことに

              とにかく片っ端から手をつけようと思った。

              いつか、と思っているうちに、人生が突然終わってしまうことがある。

              そんなくやしさ、辛さ、悲しさは味わいたくないと、本気で思ったんだと思う。

               

               

              あれから5年。

              もうね、ほんとやりつくしたよ!

              したいと思ってたことをほぼやり尽くしたら、「いつか」がだんだん人生から減りだして

              そこに浮上してきたのが、前に書いた「メメント・モリ」だったわけで

              店じまいという、「いつかの死」に関心が向くようになってきた、というわけなのだった。

               

              いやあ、ほんとによくやった。いろいろ。

              なので、ある意味、やり残したことってもうないなあと思ったりする。

              まだやりたいことはあるけど、5年前のあの、強烈な慟哭はない。

               

              言い方を変えれば、今回の私が受けた告知はショックで、暗黒星雲をさまよったけれど

              もっともっと強烈な慟哭を体験する人がいっぱいいるんだと思う。

              本当に、すごいことだと思う。

              5年前の私のはほんの数週間で笑い話しになったけれど

              その現実がさらに深く、重く、続いていく人たちがいて

              病と向き合うということに対して、ほんとに深く頭を垂れるしかないなあと思ったりもする。

               

               

              そんな5年間を送ってきたんだった。

               

               

              さて、今回ワタシの肺にみつかったガンは、一応いまはギリでステージ1ということになっているけれど

              それなりに育ってはいて

              主治医がぽろりと言ったセリフによると

               

              ”ここまで育つのにだいたい5年ぐらいかな”

               

              ということらしい。

               

               

              子宮肉腫事件があったのが、5年前。

              5年。

               

              肉腫ではなかったけど、まあ、それなりに何かは起きていたんか、自分の体、と思ったりする。

              ま、違うかもしれん。

              そんなこと考えてもどうしようもないし、すべてのこと後悔もしていないのでいいんだけど

               

              私が検診を受けていた病院では、3年ほど前から

              「なんか肺に影があるけど、石灰化とかだと思うよー。大きくなったら見てみようねー」

              「別に変化ないねー。大丈夫でしょー」

              というやり取りが続いていたのだった。

               

              うむ。

               

              ほいじゃ、3年前にもっと検査してたら、もっと軽くてみつかったのかしら。

               

              っていうか、じゃあ、なぜ今年急に?

               

               

               

              それ、影が大きくなってたわけでも、自覚症状が出てたわけでもぜんぜんないの。

              偶然が重なって、みつかった。

              その偶然のいろいろが、なんだか私の人生のシナリオのような気がして。

              おもろいなあと思うんだー。

               

              それ書き出すとまだまだ長くなるので、前半はここで終わり。

               

              後半につづく。

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              一日で人生が激変する。そんな時みんなどんな気持ちだったのか、私、ぜんぜん知らなかったよ。

              2018.07.11 Wednesday 09:47
              0

                ガンになった。

                 

                というか、正確にはガンがみつかった。

                 

                先だって、メメント・モリという日記を書いたけれど、それはわかる前からずっと考えていたことだった。

                タイミング的に書き留めておかないと、あとでわけわかめになるなあ、と思って書いておいて、よかった。

                 

                本当に不思議だ。

                今回のことは青天の霹靂だ、と思ったけれど

                たぶん、からだの奥底で、頭のどこかで、心の片隅で、

                ちょっと前から、わたし、ちゃんとわかっていたんじゃないかと思う。

                 

                ということで、ここからしばらく、このブログはこの手の内容のことが増えると思う。

                避けたい人は避けてほしいと思います。

                誰でも、近寄りたくない話題は、あるから。

                 

                 

                それでもね

                ちゃんと、書いておきたい、と思った。

                 

                私自身が、わかった日からそれを受け止めていく間に自分の中に起きたことが

                もう、ぜんぜん予測不能で、どうしていいかわからなかったから。

                いまはガンは治る病気だ、大丈夫だ、といくら言われても、私の中身はぜんぜん大丈夫じゃなかった。

                メメント・モリなんて考えていた時期が続いていたから、なおさら、だ。

                 

                あれ?

                私のまわりにはガン告知を受けて治療している人が結構いるのに

                最初の衝撃については「辛かった」「しんどかった」というような言葉でしか受け止めていなかった気がする。

                辛かった、という言葉だけで済むものだったんだろうか。

                なんか、もっともっといろんな気持ちが竜巻のように渦巻いていた。

                 

                人によって、部位によって、進行によって

                それぞれみな違う体験だと思うけれど、記録とかじゃなくって、

                私はわたしが感じたことを自分の言葉で書いておきたいなーと思ったんだ。

                気持ちが落ち着いて、あとからきれいな言葉でまとめてしまう前に。

                達観して、大人の発言をし始める前に。

                (あー、もう少しそんな段階に差し掛かっている気もする、、、、>苦笑)

                 

                 

                 

                 

                誕生日の3日前に、特定健診を受けた。

                その日の夕方から、翌日土曜日の昼まで、普段ほとんど鳴らない(鳴っても出ない>笑)固定電話がガンガンなり続け

                どういうセールス? と根負けして出たら昨日の医師からだった。

                 

                週明け、すぐ来て、という。

                てっきり、ずっと高かったLDLコレステロールのことだと思った。

                ほんで、のほほんと、でかけた。

                 

                のんきにしてる私の横で、とりあえずCT撮ってきて、すぐ! と真顔の医師がいて

                映像を見たら

                すぐ検査ができる病院へ、紹介状書く、ほんとびっくりしちゃうね、ごめんね、あさってとか、しあさってとか!

                とにかくすぐ。

                 

                医師が拡大したり縮小したりしているCT画像は、私の肺のものだった。

                スターウォーズに出てくる暗黒星雲のような渦巻いた光が、あった。

                なんだ、これ。

                 

                 

                このあたりまでは当事者意識がなく

                それでも、紹介状を書かれた、まったく知らなかった病院に出かけてみたら

                あれよあれよと検査入院となり、次から次へと検査が続き

                 

                今日、最初の検診を受けた日から、ちょうど1ヶ月が経ったことになる。

                 

                まだ一ヶ月だけど、もう一ヶ月で、この時間はからだの状態を調べることでほぼ費やされていたから

                治療展望が見えない暗闇の時間だった。

                前向きになんてぜんぜんなれなかった。

                細胞診検査、PET検査、脳のMRI検査と続くたび、もう、すべて一番悪いシナリオばかりが頭に浮かんだ。

                 

                なんでいっぺんにわからんのだ。なんでこんな時間がかかり、体と気持ちの負担ばかり降り積もっていくんだ。

                予約、予約、予約。何でも予約。

                時間がかかればかかるほど、暗黒地帯をさまようじゃないか。

                 

                今日と同じ明日が続いていくという前提が崩れてしまい

                今困難にあっても、未来で解決できるという展望が見えない時間。

                自分の努力も工夫も、何者も抗えない時間に突然放り込まれて、悄然とした。

                 

                 

                それ、なんか

                こんなことを「考えていた」とか「思っていた」というのとも違うような気がする。

                 

                からだと頭の気持ちが、まったく統制が採れず

                ただただ、衝撃を受けてた。

                 

                そうだなー、例えたら

                からだの中にミキサーがガーッと回ってる感じ。

                思ったり考えたりする暇もなく、言葉で言い表せるわけでもなく

                ただただ、自分の中にあるいろんなものが一斉にガオガオとミキサーにかけられて

                それが四六時中続いているから、なんかもう、自分全体が内側から打撲傷みたいな>笑

                体調も気持ちもコントロールできず、ただひたすら、不意に粉砕されるような時間が続いた。

                 

                ああ、ミキサーみたいだなぁと、かろうじて気づいたけれど

                中身を回っているのはジュースみたいなきれいなものじゃまったくなく

                もっと、タールみたいな黒くて茶色くて、どろーっとしたもの。

                 

                ステージや転移状況がわからない間は、そんなタールみたいなものでからだが満たされていた。

                時々、ガーッとミキサーが動く。

                仕事や家事やともだちとのいつもの日常の延長の時間を過ごしている間は

                静かに気持ちが落ち着いて、あれ? なんでもなかったんじゃないかな? と一瞬錯覚する。

                そんな一瞬の隙きをついて

                どろーっとタールがからだを覆っていく。

                 

                肺だった、というのも大きかった。

                なんで、肺?

                死亡率も転移率も高いんじゃなかったっけ?

                 

                 

                昔「Xファイル」っていうテレビドラマがあって、あの中で異星から移植して来た生物が「ブラックオイル」というウィルスに感染するというシーンが何度も出てきた。

                ふだんは人間の姿をしているんだけど、この黒いオイルに感染した人は、何かの折に目がどろーんと真っ黒い液体で覆われて、白い部分がなくなり、そのうち鼻や口から黒いタール状のものが溢れ出したりする。

                 

                あんな感じだった。

                ブラックオイルは、別名「ブラックキャンサー」と言うらしい。

                まんまやん。

                そういえばあのドラマには、肺がん男ってのも出てきたな。

                楽しく見ていたのに、今はもうその言葉さえ聞きたくないわい。

                 

                 

                 

                そんなわけで、だいたいのステージがわかるまでの間、

                私の中身はほぼ、そのブラックオイルみたいなもので覆われていたような気がする。

                コントロール不可でミキサーが動いて、どろーっとしたブラックオイルが撹拌され、

                一瞬忘れて静かに暮らしていても、ふいをついて、ブラックオイルがからだを満たしていく。

                 

                なんだ、この比喩。

                何の役に立たない気もするけど、そう思ってたんだから仕方ない。

                 

                 

                 

                情報が少しづつ見えるようになって

                ブラックオイルのどろどろ感は減った。

                意味不明の不安や恐怖やわけわかめ感に、少しづつ言葉での解説がつけられるようになった。

                時間、かかった。

                逆に言えば、そういう時間は延々と続くわけではないので、時間が解決していく、と言えるのかもしれないけれど

                最中にいる間は、本当にどうしていいかわからなかった。

                この時間、ちゃんと誰かサポートしてくんないと無理と思ったので

                知り合いのカウンセラーさんにサポートグループを教えてもらった。

                 

                ほんでも、そこに連絡を取ってでかけていく気持ちの余裕はなく

                 

                病院にケースワーカーがいて援助します、と言われたけれど

                治療方針や医療情報の援助ということだったので、ただうろたえている私にはまだ早すぎるらしく

                仕方なく、検査を担当した呼吸器内科の先生に頼んで安定剤を処方してもらった。

                えー、そう簡単に安定剤とか出さないよと言われたけど、お守りとして持っておくだけでいいんです、と頼んで処方してもらった。

                 

                たまに、それに頼ってほんと助かった。そういうの、どんどん頼ればいいって思った。

                 

                 

                なんか、自分弱かったなー、

                ぜんぜん、へたれだなー。

                 

                まわりの人が、みんなもっと強くてしっかりしていて立派なように思えた。

                 

                親戚にガンがほとんどいなかったこともあって、保険の準備もしていなかった。

                てっきり、脳梗塞とか婦人科系と思っていた。

                いろいろもっと、ちゃんと準備していてよかったという友人の話を思い出し

                 

                自分はなんていろいろ下手くそなんだ、と落ち込んだ。

                うまくやった、運がよかった、準備しておいてよかった、という賢い知人友人の言葉が渦巻いて

                それをできなかった自分が、おそろしく間抜けに見えた。

                 

                なんでガン保険入ってないんだ!

                 

                自分の人生、ずっとそうだったような気になった。そうだ、ずっとずっと、ぜんぜんだめだった。

                意味もなく自分を責めた。

                 

                 

                同時に

                 

                これまで周囲で病気になった人の話題に及んだときの会話が急に蘇ってきた。

                 

                「○○さん、ガンだって」

                「どこ?」

                「膵臓」

                「あー、きついね。肺と膵臓は見つかったところで手遅れってこと多いから」

                「そうなの?」

                「手術したっていうから、まだそれだけでも救いだね。転移してたら手術もできないから」

                「!!!???」

                 

                私、その会話のあと、その膵臓ガンの子からメールもらって、すぐに返事できなかった。

                怖くって。そうなの? みつかったところで手遅れなの? って。

                でも本人に詳しく聞けなくて、怖気づいていた。

                 

                あれ? じゃあ、肺も?

                そうなの?

                先生手術すれば大丈夫って言ってたけど、それって「まだ救い」ってレベル???

                 

                 

                過去の何気ない誰かとの会話をこんなに覚えてる自分に驚いた。

                そして、周囲で何度となく繰り返されてきた

                 

                「○さん、ガンだって」

                「△さん、肺に転移したって」

                って話をするときの、急に声を潜めてひそひそ話をする人たちの姿が思い浮かんだ。

                 

                「肺に転移したのか、それもうだめだな」

                「骨に転移? 背骨骨折したりしたら、寝たきりになっちゃうんでしょ」

                 

                ひそひそ、ひそひそ。

                 

                 

                ああ、私もそんな風に言われるんだ。

                 

                ガンだって。

                肺だって。

                あー、きついね。

                かわいそうに。

                 

                ひそひそひそ。

                 

                 

                 

                なんだ、この被害妄想みたいの。

                 

                 

                 

                アホみたいだけど、もう、自分の中身はそんなことでいっぱいになっていた。

                 

                 

                これまでのことを、すごく反省した。

                 

                私、もう人の病のこと

                ちゃんとわかりもしないのに、そんな風にひそひそ言わない。

                 

                簡単に、もうだめだね、なんて会話に安易に乗らない。

                絶対に。

                それ、あとで全部自分に戻ってくる。

                 

                 

                同時に、病が語られないことについても考えた。

                状況が見えないから、どう扱っていいかわからなくなるんだ、と。

                 

                 

                 

                自分の病気のことや、それで感じたこと、いまの状況をちゃんと書いていこう、語っていこうと思ったのは

                そういう理由もある。

                 

                わからないことで、ひそひそ言われたくない。

                見えないことで扱いづらさを感じられたくない。

                大切に生きてきた自分の人生を

                ただ病気になったということだけで

                 

                かわいそうに、

                 

                なんて言われたくない。

                 

                 

                 

                ほんだもんで、書いている。

                「言われたくない」と思ったことなんて、たぶん誰も言わないのかもしれない。

                だから、自分のことだけを考えておけばいいんだと思う。

                でも、弱ったらそんなことを考えてしまう自分がいたことも確かだった。

                だから、そんな自分のために、書いている。

                 

                 

                病気のことを、周囲に言わずに生きていく人もいる。

                私、ハタと気づいたけど

                こんなことを書いていたら、仕事来なくなるのかもしれない>笑

                あー、そんじゃ無理ですねーって。

                しばらく闘病ですよねー、じゃあ他の人にって。

                だよなー。

                 

                それでも、書いておきたいと思った。

                なんというか、自分の尊厳のため、みたいな。うまくいえないけど。

                 

                同じ思いをした人がきっとたくさんいて、

                これから同じ思いをする人がいるかもしれなくて

                まったく違う人もいて、違う意見もあって。

                そんなの含めて全部、なんか誰にも言わないという選択肢は選べなかったー。

                 

                自分は自分で思っていた以上に、へたれだった。

                 

                へたれてへたれて、みっともないぐらい弱かった。


                 

                 

                 

                 

                そんでも、へたれて弱くなって、

                大人な対応も立派な態度も取れなくなって、

                いますごく思ってるのは

                 

                ずっとよく見えないでいたけど

                自分の周りにはどんだけ優しい気持ちや愛に溢れていたんだろーってこと。

                あ、なんか妙にまとめた感じのこと言い出してる>笑

                 

                でも、それ、ほんと。

                 

                一人暮らしだった私だけれど

                助けて、と言ったら

                ちゃんと気持ちを向けて手を差し伸べてくれる人たちに囲まれているってことをいま、教えてもらってる。

                 

                ありがとうございます。

                 

                そうして、弱いへたれな自分に向き合い、

                助けてもらう練習を、いま、している。

                 

                病はみつかったら、もうそこから先に進んでいくしかなく、

                取り巻く状況も、自分の気持もどんどん次に向かっていて、今ここにある私の気持ちは、明日には別のものになっていたりする。

                 

                ありがたいことに、私のガンは手術で治療ができて、その日程が昨日決まったので、前に書いていたこの日記を今日公開しようと思う。暗黒星雲の中にいた私の気持ちは、昨日を境に別の場所に移動した気がする。だから、この日記の内容は、書いておいて本当によかったって思う。ほんと、人の気持って不思議だなー。

                 

                 

                いま、闘病って言葉は、なんか違う気がするから、ガンと「闘う」とは思っていない。

                そして「頑張る」となるべく言わないようにしている。

                 

                 

                そんなあたりのことを、また、書くと思う。

                ゆらりと、向き合っていきます。

                 

                 

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                メメント・モリ 人生100年時代に死が見えない不思議

                2018.07.04 Wednesday 04:20
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                  ずっと考えていた話題が、慌ただしさの中で放置されていううちに心の中で遠のいていくので、とりあえず今のうちに書き留めておこうと思う。

                   

                  6月に58歳になった。

                  TVの健康食品のCMとか、もう一億Forever young状態だし、人生100年時代なのだとあちこちでうるさいから、今の時代58歳はまだ若いということらしい。確かに、見ばえとしては、58歳の自分はまだ、若い。

                   

                  それでも、私の中では今は十分に成熟した年齢で

                  再来年が還暦だと言われると、なんだかもうずいぶん遠いところに来たもんだ、と本当に思う。

                   

                   

                   

                  昨年のはじめに息子が独立し、その後すぐに父が倒れ、一年ほどの闘病を経て昨年末に亡くなった。

                  その後はひとりぐらしになった母と、老犬になったパグのちょこのフォローで、同じくひとりぐらしになった自分のフォローがうまくできないまま、漠然と、自分はこれから、どうやって生きていくのだろうということを考えていた。

                   

                  37歳でフリーランスになってからずっと、私の毎日は、仕事と育児と家事と、それからその他いろんな楽しいことや面倒なことで24時間が埋め尽くされていて、なんだか息をつく暇もなかったなあ、と思う。

                  でも、それは同時にひどく充実した、魅力に満ちた時間でもあって

                  おそらく、会社員として時間を拘束されなかった私は、その分、濃厚に人生の時間を消費したような気がする。

                  やりたいことは、ちゃんと全部やった。

                  そんな風に思うことが増えた。

                   

                  昨年、なんとなく子育てを卒業したのだなあと思った日、つれづれと自分の人生を振り返って思ったのは

                   

                  ああ、私

                   

                  生きることを、さぼらなかった

                   

                   

                  ってことだった。

                  まじめでも勤勉でもなく、へたれで、手抜きずぼらが得意で、学校の授業も面倒な役割もさんざんさぼってきたけれど

                   

                   

                  生きること

                   

                  だけはさぼらなかった

                   

                   

                  そんな気がした。

                  生きることはときにひどく困難だった気もしたけれど

                  そのときどきにおいて、とりあえずはちゃんと生きた。

                  たぶん、結果として、とてもしあわせだった気がする。

                  そんで、ふと気づいたら58歳だけれど

                  もうすでにやりたいことのほとんどはやってきてしまって

                  あれ

                  残った時間、私は何をして生きていくのかなあ。

                  会社員で定年があって、時間の使い方がガラリと変われば、その後の人生でやりたいことがたくさんあるように思うけれど

                  やりたいことはとりあえずできる同じ時間が続いていく自分にとって、ここから先の時間をどう生きていくんだろう。

                   

                  そんなことを考えていた。

                  子育てで奔走していた時期には、考えもしないことだった。

                   

                   

                  12年が5回まわって還暦になるって

                  たぶんそういうことだよなあ。

                  ひとまわりして、することちゃんとしてきて、なんか残りはおまけみたいなもんだから

                  そこで何をしていくのかって、今すごく考える時期なんだよなあ。

                  私はそう思うんだけど

                   

                   

                  なんか世の中的には、人生はまだまだずっと同じように続いていて

                  40代のようなスタイルを維持して、走って泳いで、そしてまだまだ現役で働き続けて

                  途中で病気になっても現代医学で治癒するからそのまま100歳まで生きるのだ、ということらしい。

                  なんだろう、その根拠レスな自信>笑。

                   

                  なんか、とてもとても、疲れるなあと思った。

                   

                   

                  100%の人が全員死ぬのに

                  いま生きている中で死が語られず、若いこと、生きること、働くことが語られ続けることに、なんか疲れてしまうんだと思う。

                  人生100年時代なんて言われて、「死」が見えなくされている今って何なんだろう。

                  長寿社会は素敵なことかもしれないけれど、高齢者層がなかなか死なないことで、日常から死が遠くなった。

                  そこにふいに忍び寄ってくる「死」は、だからやっぱり怖い。

                   

                   

                  少し前に、友人がまだ若い息子を亡くした時

                  彼女のもとに飛んでいく勇気が私にはなかった。その現実が恐ろしくて。

                  久しぶりの便りで、ステージ4のがんで闘病中だと伝えてきた幼馴染に

                  すぐ返事が書けなかった自分がいた。どう向き合えばいいのかわからなくて。

                   

                  そして先日、辰巳渚さんが52歳で事故で逝ってしまった。

                   

                  死の前で自分があまりに無力で、なんの準備もできておらず、ただ立ちすくむだけだという現実に、うちのめされた。

                   

                   

                  天寿を全うしたであろう父のときは

                  死よりも、死の儀式に消耗して、体調を崩した。

                  直接、死の儀式に関わったのは、思えばはじめてのことだった。

                  自分のもろさが、情けなかった。

                   

                  ああ、思い出した。

                  94歳で亡くなった祖母は、死の間際に病院のベッドで「死にたくない!」と叫んだのだった。

                  強烈だった。

                   

                   

                  そんなこともあって、今年のはじめぐらいから、私は、私の店じまいをどうやっていくのか

                  ということを考えるようになった。

                   

                  友人たちからは、まだ早すぎると言われたけれど

                  自分としては十分に、もう、そういう年齢なのだと思ったんだった。

                   

                  人生を振り返ってみたら

                  20歳の成人式までは、自分の人生を構築するために勉強したり経験することで過ごして

                   

                  その後の20年

                  40歳までは、社会の中で自分の居場所を作るための基礎づくりをした時代だったなあと思う。

                  就職や転職、結婚や出産をして、「働いて生きていくこと」の基礎を作った。そんな時代だった。

                   

                  ほんで、そこから20年、

                  俗に言う還暦までの間に、自分が作った基礎をもとに、社会に何かを還元していく。

                  それは自分が「何者かになる」ための時間だったんじゃないかと思う(まだ2年あるけど>笑)。

                   

                   

                  60歳からの時間は、だから、そんな風に店を出した自分が、ちゃんと店じまいをするための時間なんだ。

                   

                  って

                   

                  そう思ったんだった。

                  「家」が延々と続いていく時代はもうなくて、私などは特に、最後はひとりなのだから

                   

                   

                  敷地いっぱい広げた店を

                  きちんとたたむ。

                  それが今の時代を生きる、自分の人生に対する落とし前で

                   

                  どこまでも「生きること」に向き合うよりは

                  どこからかはちゃんと、「死ぬこと」に向き合わないと

                  いかんのじゃないの?

                   

                   

                  そんなことを今年のはじめからよく考えていたんだった。

                   

                   

                   

                  還暦で人生がゼロに戻るのが60歳だとすると

                  そこから先の店じまいが、次の20年後の成人式の80歳まで。

                   

                  生まれてから成人するまでにしてきたように、きちんと別の世界に行くための準備をする。

                  保育園、幼稚園までかもしれない。

                  小学校卒業まで行けたら72歳だ、御の字だ。

                  中学で75歳、高校までなら78歳。こりゃ、進学や受験もあってしんどそうだなあ。

                  大卒で82歳、そこから先は大学院で>笑 まあ、自分がどこまで行けるのかわからないけど

                  そこまで行くには原資も必要だから

                  ここから先は長ければよいってこともないように思う。

                   

                   

                  彼岸に行くための成人の準備を

                  そろそろ始める年齢なんじゃないのかな。

                  生きることもとても大事だけれど

                   

                  メメント・モリ

                   

                  死を見据えること。

                  いま、すごくそれ大事。

                  そうじゃないと、立ちすくむ。

                  いままでの枠組みのままでは、ここから先は無理。

                  まだ早いの?

                  そんなことないよね。

                  そんなことを考えていた今年のはじめからの私なのだったよ。

                   

                   

                  ってことを書いておこうと思いつつ、すっかり時間が経ってしまったので

                  今のうちに。

                  じゃあ、おやすみなさい。

                  category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

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