ともだちって何なんだろな。100人できなくたっていいけど、生きてきた財産だとも思うよな。
コロナで誰とも会わなくなって、
あれ?
こんなにずっと誰とも会わなくて
もしかして、私はともだちがいないのか?
え?
突然そんな不安に襲われたことがあった。
考えてみたら、昔から群れるのが苦手で
お互いの家で寝泊まりしたりするような間柄のともだちはいなかった。
大人のいまになっても、熱が出ちゃったよ、買い物代わりに行ってくれない? みたいな
そんな日常の気軽なことで行き来する人や、ご近所ネットワークは壊滅的に存在しない。
同じマンション内に仲間がいてよく誰かの家で集まってるとか
愛犬亡くなったら次々弔問客とお花が届いて、、。。とか
そんな話を聞くたびに、ああ、それは私の人生に存在しないものじゃなあと思ってきて
でも、それはそれでいいんじゃないか? と思ってきたのだった。
ほどよい距離感の友人知人がいてくれれば、それが一番、と。
それがコロナで。
あれれ?
私、ともだちいないのかも。なにそれ、私ってそういう人生だったの? あれ?。。。。と
まわりの人達が妙に眩しく見えてしまって
妙に弱気になっちゃったんであった。なんじゃらほい。
そんなことをSNSでちょろりとつぶやいたら、2つの意見が帰ってきた。
ひとつは「まったくおなじこと考えてた!」という人。
自分にはともだちいないのかも、、、、と不安になって自信を無くしていた。同じこと考えてた人がいて救われた! って。
おおおお、そうだったのか。そうなのか。
そしてもうひとつは
「ともだちって、数が多ければそれでいいの?」という意見。
友だちがたくさん欲しい人もいるかもだけど、自分は少なくて十分、大切な数人が身近にいてくれればいい、と。
そして、コロナで人との交流が途絶えた分
うわべだけの付き合いのようなものが淘汰されて、逆にめちゃ心地いいという話もあった。
そんな意見を聞きながら、意味もなく不安になっていた私の気持ちは落ち着いていった。
不安になる心情も痛いほどわかる。
そして、多けりゃいいのか? ってのも間違っていないし
断りづらかったおつきあいの煩雑さがなくなって、目からウロコでスッキリしたのも確かだった。
こうして、それまであまり深く考えたことのなかった
「友だちってなんだろ?」ってことを
コロナはいろいろな形で突きつけてきた気がする。
SNSに近況を書いたら、あっという間に千人近くから「いいね!」がつくような場所にいる人はキラキラして見えるけれど、その多くは、知り合いや、仕事仲間や取引先、イベントで一度挨拶しただけの人だったりもする。
こうして「友だち」という定義をFacebookは軽く破壊していった。
SNSの世界が浸透したいまは、そうして自分のソーシャルを否応なく気にしてしまう人も、増えたんじゃないかと思う。
そんなことを考えていたら
「わたしたち、おともだちだよね。ともだちと思っているの私だけじゃないよね。いづみちゃん、おともだちでいてねー」というメッセージがやってくる。
当たり前だよ、ともだちだよ、これからもともだちよろしくー! と返す。
ああ、そうか。
「ともだち」って、相互関係で成り立っていると思ってきたけど
もしかしたら私はともだちと思っているのに、相手はそう思っていないというケースもあるわけで
「知り合い」「知人」ワールドの住人との線引きは、実は思った以上に繊細なエリアだ。
だから、つい確かめちゃって上記のようなおともだちごっこ(笑)が始まってしまうわけで。
こういうのは、「大切な数人がいればいい」という視点からは
アホなじゃれあいのように見えるのかもしれない。
でもそうやって好きな人たちと
「おともだちー」「おともだちー」とじゃれあうのは
私は嫌いではなくて
なんだかワンコになったようで、愉快な気持ちになる。
さて、結局、それで「ともだち」って一体何なんじゃろ?
いちねんせいになったら
いちねんせいになったら
ともだち100にんできるかな
という歌を聞かされて育ち
クラス替えをしたらさっそく「おともだち」を作らねばならず
ともだちが多い人気者が学校社会を制し
逆にともだちができない ことは異常行動の一つのように言われながらも
結局ともだち関係で傷つき悩み
どこかしこでいじめが始まり
嫉妬とかマウンティングとか仲間はずれとか無視とか
そんなやっかいな感情をもたらしてきたのも、みな「ともだち」の存在だった
あれさ
「ともだち」って言葉の使い方を間違っていたように思う。
あれはただ、たまたま同じ年に同じ場所に居合わせただけの人のことだ。
いい塩梅に集団内に存在する技術のようなものは、人によっては必要とも思うけれど
ともだちを作る必要など、別になかったように思う。
逆にそこで100人ともだちを作る人のほうが、心配されるべき存在じゃないのかね。
私は小中はそれなりに立ち回ってきたつもりだけれど、高校時代に親交を深めた子は一人だけで
その子とは会うのも連絡を取るのも数年に一度ぐらいで、ふだんはほとんど接点はないけれど
いまもとても尊敬している。
学生時代にともだちと思っていなかったけど
40代になってから心の友になった子もいる。
お互いの仕事や、生き方や、住む場所を通じて仲良くなっていった。
たった一回だけ、展覧会で出会って話をしただけなのに
なんとなく繋がり続けて、大事な存在になっている人もいるし
50代になってから海外で知り合った人たちとは
創作を通じて強い結びつきを持つようになった。
彼らをすべて「ともだち」という言葉ではくくれないように思うけれど
どれも、根底には「尊敬(リスペクト)」があった。
そうだなー。
ともだちは、たくさんいなくていい。
大切に思うほんの少しの人に、愛を注いで生きていけばいい。
愛は無尽蔵ではないし、心配りを見返りなしでできる相手には限りがあって、割ける時間にも限りがある。
でも、一方で
ともだちは、自身が生きてきた時間の財産であるのだと思うこともある。
その人がしてきたこと、残してきたものを尊敬できて
その人の行うことが、自分に勇気や希望を与えてくれること
素敵な刺激をもたらしてくれて
新しい世界を見せてくれること
そういう人とどれだけつながっていられるかというのは
人生を豊かにしてくれる大きな手がかりになるはずだ。
その場所に位置する人は、いろんな分野に
たくさんいたら、いただけ素敵だなと思う。
考えてみたら、そういう存在はみな、大人になってから得たもので
「私が好きでやりたいこと」に取り組んでいった結果、生まれた人間関係だった。
まったくの別分野であったとしても、互いが取り組んでいることをリスペクトできれば
そこに気持ちの交流が生まれることを、大人になってから知った気がする。
コロナで分断された中で、苦労して海外から来てくれた人のコンサートに先日行って
ああ、こんなふうに輝き続けている人に「ともだち」と思ってもらえるのは、なんと光栄なことじゃろうと思った。
尊敬する作品を作り続けている人が、会いたいねーと言ってくれる喜び。
また、コロナ禍の医療現場で奮闘する姿、地方のNPOに転職して頑張っている姿を知るにつけ、
悩んだり、壁にぶつかってもがいている姿も含めて
どれも自分の世界を広げてくれる扉になっていく。
それは安易に「ともだち」と呼ぶ名称の域を超えた、大切な人間関係のように思う。
「辛いときも楽しいときも時間を共にして築き上げてきた友情」というのとは違って
ある意味、とっても距離感のあるつながりなのだけれど
その分、嫉妬やマウントみたいなネガティブな感情とも無縁でいられたりもして
(利害関係がないから、なんかアカン感じと思ったらさっと離れていくこともできたりする)。
それは自分の人生のかけがえのない財産だ。
必要ないのは、なんとなくできたグループや、同窓会とか学校やサークルみたいな外的集団内でのおつきあいとか。
限り有る時間を消費される割に、会話に実りがなく、尊敬できない人と「ともだち」でいる必要はもうないよなー。
残り時間が減れば減るほど、「おつきあい」はもう、いらないなあと思う。
あー、もちろん、ともだちはいなくたっていい、という人もいたっていい。
それぞれにともだちの定義があり
それぞれのともだちがいる。
もうなんか話がどこに向かっていくはずだったのかてんでわからなくなっちゃったけど
そろそろ部屋を整理するのでこの辺で。
ともだち
ここまで書いてみたら、結構いい言葉だね。