「書く」ことで人生は変わるのかしら。改めて、自分にとっての「書く」ということ
ブログなんて、もう全部やめてしまおうと思ったことは、何度もある。
書いている意味がわからない。
このブログも何度も廃止しようと思ってここまできたけれど
それでもまだ、ある。こんな適当な運営でほんとすみません。とにかく、まだ、ある。
書くことで報酬を得ているプロなのだから、謝金が発生しない場所で書きなぐることはしないという方もいて、それもよくわかるし、あえて書くことで、自分のプライベートを切り売りする気がしれないという人もいて、それも納得する。まあ、何を好き好んでインターネット上に文章を書いて、書いたことで落ち込んだりざわついたりするのか、自分でもよくわからないのだけれど、気がついたら書いているのだから、きっとそれは自分にとって必要なことなのだろうと思う。
ぐだぐだな文章ですな。すみません。
そんな場所でも、たまにこうして戻ってきて、何かを書こうと思ったりする。
これ、とっても不思議だなあと思う。
昨年から、なんだか怒涛の日が続いた。
コロナ禍だから、さまざまなものが停滞したのに、なぜか自分の身の回りは途中からざわついた。
年老いた一人暮らしの母との問題。
寝たきりになった愛犬の介護と見送り。
あれこれ修復が必要な自宅の課題と同時に、完全リモートワークとなった息子の自宅拠点づくり。
なぜかうちにやってきた車。
そして自分自身の生き方の方向転換と、引っ越し、2拠点生活。
それがなんとなく、年度が変わる今、落ち着いてきた気がする。
それで、ブログを開けて、こうして書き出している。
昔読んだ谷川俊太郎さんの詩で、現実が夢のようになってから僕は夢をみなくなった、、、、というようなものを読んだことがあるような気がするのだけれど、谷川さんの詩があまりに膨大な量なので、それが何の詩だったのか、もうてんで探し出せなくなってしまった。
なのでそれは、谷川さんの詩を離れて、私の中の自分詩のようになって、今も頭の中によみがえることがある。
たぶん、「書く」ということは夢のようなことなのではないか、と今の私は思う。
(夢というのは夜見る夢のことで、人生の行き先に設定するたぐいの「夢」とは違うよ。そっちのほうによく使われがちな「夢」という言葉は、私はあまり好きじゃない)。
「今ココ」の場所をはみ出して、自分の頭や心のなかにある秘密の部屋を覗きに行くような
実際には何も起こらないのだけれど、小さく日常をはみだしながら、梗塞しがちな日々をゆるやかにゆさぶって、ちょっとした新しいことや、おもしろいことが入り込む隙間を作るような
私にとって、「書くこと」はそんな「夢」のような働きをする作業なのかもしれない。
日常が自分のキャパシティを超える勢いで動き始めると
夢を見る余裕はなくなり
というか、夢を見る必要もなくなり
ただただ、ゆさぶられるように日々はすぎ、ふと気づくと日常の中にからめとられて、なんだかとっても疲れている自分を発見したり。たぶん、去年の後半から今までの自分は、そういう感じだったから、
だから、何も書けなかったのかな、と今は思う。
人生には夢見るための小さな隙間があることが必要なのと同様に
書くこと、書けることというのは、もしかしたらとても大切なことだったのか、と改めて。
んなわけなので、また書いています。
気がつけば、本当に疲れていました。
いや、悪い意味ではなく、いい意味での人生の時間だったけれど
そろそろ、ゆっくり夢を見ながら
また、書いてもいいのかなと思い始めています。
また、来ますね(って、たぶんこれは自分に向けての約束なのかな)。
2021年3月31日。
明日から、4月です。