一晩いなかったら老犬の夜吠えが止まった。それで思い出した子育ての辛かったあの頃のこと。欲しかったことば。

2020.08.31 Monday 12:05
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    そろそろ15歳になる老犬の夜吠えが半端ない。

    毎晩きっかり3時ごろ吠えはじめる。

    集合住宅だから騒音苦情が来るのも怖いので、なだめすかすために3時すぎに少しの食事を与え

    うとうとしだすと、また吠えだすので4時ごろ小分けにした食事をまた与える。

    5時まで持ちこたえたあとは、もう我慢比べだ。

    寝室に連れ戻すと狂ったように吠えるので、そのまま、私は居間の床に寝る。

    ギャン鳴きを聞きながらツンツンちょっかいを出して、6時過ぎまでなんとか粘る。

     

    もう無理だと、フラフラの寝不足のまま起きて窓を開け、

    コーヒーを入れだしたとたんに、つきものが落ちたように老犬は眠りにつくんである。

     

     

    そんなことを、もう半年ほどやっている。

    正直、疲れた。

    ずっと優しくなんていられず、つい怒って語気が強まる。

    あんたは私にどうして欲しいんだ? と詰め寄ってしまうこともある。

     

    そんなもんで、もう耐えられましぇん、と音を上げて

    都内のホテルを予約して、一泊二日の夏休みを取ることにして

    犬の世話は息子に任せた。

    考えてみたら、コロナになる前はこんな風に家を空けることは珍しくなくて、その度に息子か実家の母が犬を見てくれていた。コロナで自粛になって、これほどまで犬とべったりと一緒にいたのは、もしかしたらはじめてのことなのだった。

    この寝不足地獄は、コロナと一緒にやってきたといってもいい。

     

    犬の鳴き声のない場所で眠った一夜は、本当にごほうびのようにありがたい時間だったのだけれど

    夜吠えがはじまってからの不在は初めてなので、私がいなくてほんとに大丈夫なのかと気がかりではあった。

    そこで帰宅後に、吠えたでしょ、大変だったでしょと、老犬介護つらたん同意を求めたら、息子はさらりと

    「一度3時に起こされたので、ちょっと叱って居間に連れていって扉をしめたら、そのまま朝まで寝てた」というのである。

     

    なんなん。

     

    それ、なんなん。

     

    その夜眠りにつくと、いつもどおり老犬はきちんと3時に吠えだしたので

    息子の言うとおりに、居間に連れていき、食事は与えず扉を閉めてみた。

    あら不思議。あとは朝まで、私のベッドの横ではなく、居間で一人で(一匹で)朝までコンコンと寝続けた。

    メシをくれと吠えることもなければ、寝室と居間の間をひっきりなしに徘徊することも、なかった。

     

    ほんとに、なんなん。

     

     

     

    今日のエピソードは、ただそれだけの出来事なのだけれど。

     

     

     

    ああ、でもさあ、といろいろなことを思い出したんだった。

     

    息子が小学校5年生の頃、腹痛を訴えて学校に行けなくなった。

    担任が変わり2ヶ月ほどたった頃から不登校が始まり

    私はシングルマザーで仕事も忙しいなか、学校とのやりとりで拉致があかなくなり、すがれるものには全部すがる思いであちこち奔走した。今思い出しても、泣ける。

    まあでも、一番大変だったのは息子だと思う。言葉で整理しきれいない、さまざまなものが処理しきれなかった時期。彼もよく頑張った、とまぢ思う。

     

     

    当時、毎日家から出られない11歳を抱えて、仕事には行かねばならず、この事態をなんとかせねばならんといろいろな場所にSOSを求めた中でかけられた言葉の中には、いまでもヒリヒリと胸をえぐるものがいくつかある。

     

     

    紹介されて行った某大学キャンパス内での児童心理相談では、子は学生のグループが遊びを通してセッションを行い、保護者は児童心理学の教授が別室で相談に乗るというシステムだった。子供は大学生の優しいお兄さんお姉さんが遊んでくれるので喜んで通いますよ、という話だったのだけれど、2回ほど行ったところで息子が

    「もう行きたくない」と言い出した。

     

     

    いや、行かねばなるまい。なだめすかして受付まで行ったら、私の手をすり抜けて逃げ出して、キャンパスの庭の芝山の上で膝を抱えてしまった。
    おいで、行こう、戻ろうといくら言っても、動こうとせず時間だけが経過していく。
    「任せてください、お母さんは教授のところへ。ここは僕たちが」
    学生くんたちがしゃがみこんだ息子に声をかけ、のろのろと部屋に戻る姿を横目に見ながら教授室に入ると
    あごひげを蓄えた偉い教授先生は、私の目を冷たい眼差しで見据えながらこう言ったんだった。
    「お母さん、あなたがどんなに声をかけても動こうともしなかった彼が
     学生が声をかけたら素直に従いましたね。
     これ、どう思いますか?」
    え、どうって。。。。。。
    言葉に窮しているうちに、あなたと母親との関係はどうか、あなたの中になにか子供との関係を阻害する要因はないかといった誘導尋問のようなカウンセリングじみたことが始まってしまい
    ああ、もう勘弁してという思いと同時に
    「彼がこうなってしまったのはあなたのせいではないですか」
    「不登校の原因のひとつにあなたの子供との関わり方、育て方があるんですよ」
    と言われているような気がして、とにかくもうほんとに、はげしく傷つき落ち込んだんだった。
    子が、親ではなく他人がいうほうが言うことを聞くなんて、当たり前じゃないのと今では思える。
    親のいうことのほうが絶対というほうが、怖いだろ。違うか。

     

    似たようなことが、知人に勧められていった都内の有名児童心理専門のクリニックでもあった。

    子供との会話は、親は同席できないのだけれど、あとから呼ばれてこんなことを言われた。

     

    「そろそろクリスマスだけど、君はプレゼントに何を買って欲しい? と息子さんに聞いたら

     お母さん、彼は少し考えてから”特にない”と言ったんですよ!

     11歳の男の子が、欲しいものがないなんてありえないことです。

     それだけ、親に何かを求めてはいけないと彼が気を使っているということなんですよ。

     小さい子供にそんな気の使わせ方をさせて、彼の不登校や体調不良の責任は、やはり親御さんにもあるのではないですか」

     

    はじめて行ったクリニックで、ほんの数分話をしただけで

    それは親の責任だ、と言われてしまい

     

    私はもう胸に重い石を抱えた状態で帰路について

    その日の夜に息子と話をした。

     

    クリスマス、欲しいと思いつくものがあったら何でも言ってみて。

    何も気をつかう必要もないよ、お母さんもお父さんも、欲しいって言われるほうがずっとずっとうれしいよ。

     

    彼はまたしばらく考えて、こう答えたんだった。

    「あのね、ほんとうに思いつかないんだよ。いっぱいあるような気がするけど、何? って言われるとほんとにわかんない。

     先生に聞かれたときも、だから特にないです答えたの。僕ほんとに、いますごく欲しいものって特にないんだよ」

     

     

     

    今いろいろ思い出すと、体調不良や不登校の原因の中には、親の責任というのもあったのだろうと思う。

    それでも、子供も親も、どうにも説明がつけられない現実の中で苦しみながら

    答えを探して、なんとかいい方向に行きたいともがいていた時間の中で

    安易に悪者探しをして責任を問うことに、いったいなんの意味があったのだろうと思うのだ。

     

     

    結局彼は6年生で担任が変わってから学校に通えるようになり

    それでも「学校」という場での生きにくさは中学でも変わらず

    紆余曲折を経たけれど、20歳を超えて学校以外の場所で生きるようになってからは、生き生きと自分の道をあるき出した。

     

    あのとき、学校に行けなくなったのはなぜだったのか、とあとになって聞いてみたけれど

    「いろいろあって、からみあっていて、ひとつの理由では語れないな

    うーん、なぜだったんだろうな」という答えが帰ってきただけだった。

    考えてみれば、学校に行かないことが大問題であるということ自体、おかしなことなのだろうと思う。

     

     

    いや、老犬の夜吠えエピソードでなんでこんな話を思い出しているかっていうと

     

    ひとつの命を監護するってことは

    ものすごく責任が大きくて、近ければ近いほど、自分がちゃんとやらなくちゃ! 自分の責任かもと

    どんどん密接に関わってしまいがちなんだけど

     

    関わりが深くなればなるほど、相手も身動きがとれなくなっていき

    おたがいからまりあって、いずれ探し出せる答えも探せなくなっていってしまう

    …なんてこともあるんじゃないのかなあ、と思ったからなんだった。

     

     

    私が今こんな風に、いい思い出のように過去のことを話せている理由のひとつには

    途中から一人で抱えることをやめてしまったからというのもあるんじゃないかと今では思う。

    私が関わらない場所で、彼を受け入れてもらえる場所があればなんでも頼った。

    すべてを知ろうと思わずに、別の場所にいる誰かの解釈に任せることを学んだ。

     

    全部母親であるあんたの責任だなんて、誰にも言われたくないし、言われる筋合いもないと思ったんだった。

    なぜなら、子供は私とは別の存在で、親と重ね合わせずに一人の人格として扱われるべきだと思ったから。

     

     

    あのとき、ああ、私の責任なのかもしれないと考えて

    歩み寄って、関わって、私以外この子を救えないなどと思っていたら

    今頃、まだいろんなことがこじれていたかもしれない。

    そうしてこじれまくってしまった親子の関係性って、意外とあるように思うからだ。

     

     

    あれ? ほんでも、をい!

     

    今まさに

    私はそうして老犬との関係を、こじらせているんじゃないの?

     

     

    この子の世話ができるのは私だけ。

    いま大変な時に、全部わかって面倒みられているのは、私がここにいるから。

    そんな過剰な密着が、犬の行動を呼び寄せているってことが、あるんじゃないのか。

     

    こじらせたらあかん。

    お互いたまには、離れなあかん。うん、たまにはちゃんと、離れよう。

     

     

     

    大変だった数年間、あのとき一番辛かったのは

     

    ”あなたの育て方に問題があるのではないですか”

     

    と、

    直接発せられなかったとしても、ビンビンと伝わってくるこうしたメッセージだったように思う。

    こんなメッセージは、今でもWi-fiのようにあちこちをブンブン飛んでいて、辛いときにはひときわこたえる。

     

    育て方の正解なんて、誰が知っているというのだろう。

    理由なんてそう簡単に特定できず、親も子も右往左往しながら苦しんでいるときに

    今なら、何が必要だったのかがすごくよくわかる。

     

    ”いま大変なときだね、おつかれさま。

     一日見ていてあげるから、あなたはちょっと休んできたら?”

     

     

    わんこも、私が休んだら、張り切って吠え続けなくてもよくなった。

    休めたのは私だけじゃない。

    吠え続けるほうも、実は大変なのだ。

     

     

     

     

    誰も責めない、原因や理由を探し出さない。

    ただ、

     

    休んでいいよ

    その間、手伝うよ

     

    と声をかけてくれる誰かがいてくれること。

    そして親も

    その誰かと、何よりもこどもを信じて

    きちんとつないだ手を、手放せること。

     

    子育ての中の多くのしんどさは

    そんなことでちょろりと緩和していくのかもしれない。

     

     

     

    なんてことを考えた

    犬も私もぐっすり眠れた翌日の日記でした。

    さて、昼ごはん。

     

     

     

     

     

     

     

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    36歳で会社をやめたのは、とてもシンプルな理由だったことを改めて思い出した

    2020.08.13 Thursday 22:19
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      26歳で転職した会社を、10年目の36歳の時に辞めた。

      31歳で結婚して、34歳で出産し、1年の育児休業を取得してから復帰して、1年目に辞めたことになる。

      本来なら復帰後はもうちょっと長く続けなくちゃアカンのではないかと思う。

      申し訳なかった、と思う。
       

       

      ほんでも、私が息子を生んだ1994年ごろの日本の企業の中では、頑張ったほうだと思う。

      妊娠しましたと報告した時、多くの人が「おめでとう」の言葉と一緒に、

      「ああ、これで退職ですね、残念ですが」と言った。

      妊娠した女性が仕事を続けるという発想を持たない人がまだまだ多い時代だった。
       

       

      それでも、それ以前よりはまだいいほうだったと思う。

      1991年に育児休業法が制定されたことで、妊娠しても休んで復帰してよいことになり

      少なくとも働く妊婦は、法律上守られることになったのだ。

      (休業中は無給だったけどね)。

      それ以前は、結婚を報告した時点で、「おめでとうございます、寿退社ですね」が通例で

      退社する側も、鼻高々の勝ち組状態で辞めていった。

      25歳を過ぎたら、売れ残りのクリスマスケーキ。

      アホくさいけど、周囲からの扱いはそんなもんで、だから私も最終ギリギリの大晦日31歳で結婚したんだった。

       

      32歳の時、結婚後1年しても妊娠しないのは不妊だから病院に行けなどと親戚から言われ

      まあ、なんとか自然に妊娠したけど、周囲からは「高齢出産心配」「マルコウ、マルコウ」とさんざん言われた。

      34歳だと母子手帳に「高」って字に○つけた丸高(マルコウ)マークのスタンプ押されるって
       

      なんかなー。今じゃ信じられないね。



       

       

      まあ、そんな時代だったので、自分のいた部署の育児休業取得第一号の前例を作って頑張って

      復帰して時間短縮取って両立頑張って

      それで1年やってやめちゃったわけなので

      「やっぱり大変だったんですねえ」って言われれたりもしたけど
       

       

      でも、ほんとはもっとずっと、シンプルな理由だったなあ、ってことを今日

      なんだか久しぶりに思い出していた。なので、つらつらこんなふうに書いてみている。

       

       

       

      赤ちゃんのころ、息子は本当に手のかからない子だった。

      育児時間短縮勤務で4時に退社して、保育園に迎えに行き夕食を食べさせたら

      8時すぎにはコテッと寝てしまい、夜泣きもしなかった。

      夫はマスコミ勤務でほとんど家にいなかったから、私はポカンとひとりで、長い夜を過ごしながら
       

      なんか変だなー

      この時間、私なんでもできるのになー
       

       

      って思ってた。

       

      というのも、出産前に私がやっていたのはイベントのディレクターで

      イベントの実施日と、設営や撤収はほとんど週末や休日と夜の時間だったのだけれど

      育児休業を取得して時間短縮勤務になった私は、労働組合に守られる形で休日出勤と残業ができなくなった。

      まあ、つまり実質上、元の場所には戻ったけれど

      イベント責任者という立場は、すでに後輩の子に引き継がれていて、仕事はなかった。
       

       

      「子供がいるから残業も休日出勤もできない」

       

      という人に私はなったわけなんだけど
       

      おかしいなあ

      一度家に帰って子どもを寝かしつけさえすれば

      ここから先3時間でも4時間でも、私、家で仕事できるんだけどなあって。
       

      そんな風に思ってた。

       

      ただ、会社という「場所」にいられることだけが価値って、なんか変なのって。
       

       

      それで、なんとなく不完全燃焼になった私が何を考えたかというと

      「二人目を作っちゃおうかな」ってことだった。
       

       

      なんたって子どもはかわいいし、出産ハイみたいなもんになってたこともあって

      イエーイ、このまま勢いで2人!!! って十分アリじゃん? と。
       

       

      それでね
       

      そんなシミュレーションをしながら、気づいちゃったんだ。

      私、この1年以上、「スミマセン」ばかりを言って過ごしているってことに。

       

       

      スミマセン、妊娠したので休業します

      スミマセン、つわりで辛いので休憩していいですか

      スミマセン、育児時短なので4時で帰ります

      スミマセン、休日は出られません、残業できません、飲み会出られません

      スミマセン、子供が熱だしたらしいので帰ります

      スミマセン、スミマセン、スミマセン

       

       

      ああ、私このまま二人目も生んで会社復帰したら

      この先何年も、こうしてスミマセン、スミマセンって言って過ごすことになるんかなああ。

      仕事はずっと続けたいと思っていたから、居心地のいい今の会社にずっといてもいいんじゃないかって考えることも多かったけれど、こうしてスミマセンって言いながら続けていった先にいる自分は、果たして笑っているのかな。
       

       

      当時、まだ社内に女性の管理職はほとんどおらず、子育てしながら仕事をするロールモデルもいなかったから

      私は自分の未来を、妄想してみるしかなかった。

      二人の子供が小学校を出る頃、50歳の私は

      果たして、笑顔でいるんだろうか。
       

       

       

      私が会社をやめた理由は、ただただ、シンプルにそのことだったように思う。

       

       

      50歳になった時、笑っていたいな
       

       

       

      ほんで、やめちゃった。


       

       

      仕事へのポテンシャルもあるし、家にいられさえすればいくらでも仕事はできると思って

      フリーランスになった。「仕事」の中身なんて考えずに、独立した。考えたらちょっと無謀だった。

      で、今ここにいる。

      結局二人目の子どもはできなかったし、離婚もしてシングルマザーにもなった。
       

       

       

      それでも

      50歳になったとき、ほんとに笑ってた。

      大変なこと、しんどいこともいっぱいあったけど、でも

      にこにこ、にこにこ、笑ってる自分がいた。

      50歳の誕生日、お友達たちが開いてくれたパーティで。ほんとに笑ってる、ニコニコというよりガハガハと笑っている。
      みなさん本当にありがとう。


      あのまま会社にいても、もしかしたら笑っていたのかもしれない。

      でも、とりあえずあの時、そんな風に思ってやめたのは、間違いじゃなかったのかなーって今は思う。
       

       

       

      物事を決断するきっかけは

      もしかしたらそんな風に、とてもシンプルな場所にあるのかもしれない。

       

       

      笑っていられる?

      楽しい?

      気持ちいい?

      おもしろい?

       

      そして何よりも

       

      やりたい?

       

       

       

       

      将来有利だからやっておいたほうがいい

      とか

      ○歳までにやらなくちゃ

      みたいに思うより
       

       

       

      笑っていたいからやってみる

      とか

      おもしろいからとにかくやりたい

      って
       

       

       

      そんな場所から始められることのほうが、うまくいくのかもしんない。
       

       

       

      あー、なんか昔話をする大人になってはいけないとよく思っているのに

      今日はそんな昔話だったよ、すまん。

       

       

      60歳になった今も、ほぼ毎日ほくほくと笑っている。

      順風満帆ではないけれど、少なくともスミマセン、スミマセンとは言い続ける人生にはならなかった。
       

       

      あの時笑顔でいたいと思った、

      36歳の自分に、ありがとうと思う今日でした。

       

       

       

       

       

       

       

       

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      何もできなかったコロナ3ヶ月のあと、役に立たないことを始めるー世界の都市に疫病を鎮める仏像を48体置いてみた

      2020.08.02 Sunday 15:42
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        今年の2月、確か私はフランスにいた。

        今年の11月に予定されていたフランスでの展覧会の準備のためと、一昨年開催された展覧会に行けなかったことで迷惑をかけた現地の人たちに会うために。
         
        一昨年現地のアーティストさんが声をかけてくれて実現した二人展は、偶然みつかってしまった病の手術日が重なったことで、私不在で行われることになった。急遽送った作品はギリギリ会期に間に合ったけれど、展示から開催期間中の接客まで、フランスの友だちに助けてもらうことになり、そのことのお礼がまだできていなかった。
         
        あれから5ヶ月。
         
        いったいどこの誰が、今のような世界を想像できただろう。

         
        私は売れている作家ではないし、展覧会などもあまりやらない。
        それでも、今年ははじめて海外からギャランティの出るオファーがあったことで、少しだけ「やったるで」モードに入っていたところがある。やったるでモードの人は変なオーラが出るのか、帰りに立ち寄ったパリで、ひょんなことからパリのギャラリーでの展示が決まりかけた。帰国後に詳しい内容を決めようというやりとりをしている間に、東京のギャラリーからも問い合わせがあった。

         
        あれ? 来たか?
        来たのか?
         
        なんか、波がやってきたんか?

         
        3月には東北で、4月は愛知で、アートプロジェクトのための小規模なレジデンスもする予定だった。
        長年温めていたことが、一気に開花しそうな。
        2020年は、私にとっては特別な年になるはずだった。

         
        世界がコロナに侵食されて
        秋のフランスの展示は中止となり、パリのギャラリーの案件はなくなり、東北も愛知も行かれなくなって
        制作の細かいスケジュールを書き込んでいた私の手帳は、もう意味をなさなくなってしまったので
        100円ショップで新しく手帳を買った。
        そこに今は、今日食べたものとか
        買い物にでかけた場所とか、見た映画とか
        そんなものを書き込んでいる。
         
        そんな風に世界がひっくり返って
        最初のころ、盛大にメンタルバランスを崩した私は、創作も制作もできなくなってしまった。
         
        必要最小限の仕事をこなしたら
        ただただ、ページをあけたらやることが決まっていて、新しいものを作り出す必要のない語学のドリルを日がなやっていた。
        テレビもネットもシャットダウンして、起きたらドリルをして、食事をつくり
        たまにYou tubeを見ながらヨガや太極拳をして、Netflixに加入してむさぼるように見続けた。
        難しい映画は見られなかった。アホなドラマとリアリティーが、一日ついているような日々だった。

         
        少しづつ、何か作れるかもしれないと思えたのは7月に入ってからだったと思う。
         
        3ヶ月はからだも心も停止していた。
        創れるかもしれない、と感じたけれど
        今年創るつもりだった作品に手をつけることは、まだできていない。
         
        代わりに、世界の都市に仏像を置くというプロジェクトを勝手にはじめた。
        たぶん彼岸の世界に行ってしまった世界と自分を、現実にまた結びつけるために、何かしらのプロセスが必要なのだと思う。
         
        これまで自分が行ったことがある世界の都市から48箇所をピックアップして
        これまで創りためていた仏像の版画を
        小さくカットした桐の板に張り込み
        自分が撮ってきた写真をさかのぼって見ながら
        思い出の場所やモノたちを桐の板の中に描き込んで行った。

         

         
        感謝祭でごった返していたフィレンツェで食べたパスタの味。
        プラハの静まり返った人気のない夜の石畳。
        天文時計やプラハ城。
        マントンの海岸にそそり立つように建っていたジャン・コクトーの要塞美術館。
        町中にあふれるレモンの香り。

         
        銅板を加工して時間をかけて描画し、何度も腐食して刷り上げた銅版画は雁皮に刷る。
        乾いたらそれをまたデザインカッターで細かく切り抜いて、しょうふ糊にCMC糊を混ぜたもので、ジェッソを塗った桐の板に張り込んでいく。色付けは雁皮の裏から。最後にメディウムで補強する。
         
        旅をしてきた時間と
        作品を創るために試行錯誤しながら時間をかけて作り上げてきた工程と
        周りの世界はすべて止まってしまっていたけれど
        それらはすべてちゃんと、自分の中にあって

         
        ああ、そうか。
        新しいことがいまできなくても
        こうして自分の中を掘って、自分の中を旅して
        いまはそれでいいのかなあ、と思えるようになった。
         
        ということで、役に立たないこと、なんの目当てもないことを
        日々、ただただ
        繰り返している。
         
        この
        「繰り返す」ということに、ちょっと救われていたりする。

         
        8月になる前にやっと48体が完成したので
        ポートフォリオにまとめてみました。
        よかったら見てね。
        行ったことのある場所、見たことのある場所があったらうれし。
        (写真をクリックするとサイトに飛びます)
         

         
        ただ描くという作業以上に、いろんな場所の名称の英語表記を調べたり、国の名前のスペルを調べたり>笑
        意外とそんなことで時間がかかって、それもまた楽しかった。
        たぶん、描いている以上にそこにどんな風に時間を使ったのかということが、とても大事なのかもしんない。

         
        古来、疫病が流行れば仏像を建てたという日本から、こんなささやかで小さな創作ではあるけれど
        いつかまた平和に行き来できる日を願って、日々繰り返すということに救われている自分がいる。
         
        どこかで、ああ、物を創れる自分でよかった、と
        改めて思っているコロナの夏でした。
         
        次は森林破壊に向けての創作を、日々繰り返しています。
        また、書きます。
        category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

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