生きることとファッション。「ありのまま」というコスプレ。
先日ちょっとした動画の撮影があって、スタイリストさんとメイクさんが入ることになった。
その時に共演者さんたちと撮った写真を見て、ふむむーと唸ることになる。
前髪を立ててカールさせてセットされた髪で、コンサバな年相応のメイクをしていただき
パステル色のパフスリーブブラウスにふんわりキュロット、靴は白のパンプスという出で立ちで
笑っている私は、どこからどうみても「コレハオバサンデスネ」の代表みたいな風貌だったのであります。
いや、いいのですよ。それで。
だって私は家事を語る人間として呼んでいただいてる。
それは自分が選んできた道でもあったわけで、自己選択の結果だ。
ただ、今回の体験は、自分史上的にちょっとした衝撃だった。
なんかようわからんが、このままではいけない気がした。
それで
ちょっと真面目に考えることにしたんだった。
ファッションについて。
自分のあり方について。
もともと、おしゃれが大好きな子どもだった。
中学生のときに見たKENZOのパリコレに衝撃を受けて、デザイナーになりたいと思っていた時期も長かった。
服飾関係の仕事をしてきた母親の影響もあって、おしゃれにかける熱意は人一倍大きかったように思う。
そんな自分は、人生のどこからか仕事として「家事を語る人」としての自己像を内包するようになり
取材されることも多かったし、講演に出向くことも頻繁にあって、おしゃれは徐々に変容していった。
肩に力を入れすぎないナチュラルなテイストで
いろいろな人と共感しあうためにも、過剰に自分の個性を主張したくない。
それはそのまま、「こうありたい」と思う自己像にも重なって
ファッションは、そんな自分の「ありのまま」を表す器なのだと思ってきた。
そして今年。
コロナで外出が減り、年相応の体型の変化もあって、服への関心が薄れ
とにかく楽なのが一番だと、
気がついたら駅前の若者向けファッションモールで、タイムセール今だけ1000円! というセーターをほくほく買って
何の問題もない、と思うようになっている自分を発見したのじゃった。
そういう怠け心みたいなものが、「コレハオバサンデスネ」の風貌を作り出した。たぶん、そういうことだ。
それは「ありのまま」にあぐらをかいた劣化にほかならんよ。
それで、改めて思ったんだった。
ありのままって
なんだったんだろ。
きっかけは、ほかにもある。私史上では大事件よ。
少し前に、家のクロゼットに突如大量のカツオブシムシが発生して、私と息子の衣服の大半がその旺盛な食欲の餌食になったのだ。
高かった服から、食べられた。
カシミア、シルク、ウール。
それなりの年齢になったから、いい服を長く着ようと大枚はたいた服は無残に食い荒らされ
普段着のどうでもいい服ばかりが残った。
(不思議なことに、ユニクロのカシミアのセーターだけは、無傷だった。
これは、何からできているんだろう。。。。。。。。(ブルブル)
んなわけで、それ以来すっかり諸行無常な気分になり、衣類への投資をやめてしまった。
容易に服への執着を手放せた背景には、こんな理由もある気がする。以下、日経クロストレンドの記事。
”あふれるほどブランドショップがあるのに、欲しいものがないとはどういうことか。
探しながら気づいたのは、似たような色柄、デザインの商品ばかりが並んでいること。ブランド名がなければ、どこの服か分からないのだ。”
探しに行っても、欲しい服が絶望的にみつからない。
たまに「欲しい!!」と思える服に出会うと、桁が1つ違う。
マルジェラのTシャツがどんなにステキでも、Tシャツに6万円は払えない。
いろんな意味で、おしゃれをすることがワクワク、楽しいことではなくなってしまったのだと思う。
ま、んなわけで、服への期待値が急降下しちゃって
まあ、とにかくラクでプチプラなもんで十分じゃね? その中で気に入ったものを選んで個性愉しめば、、、と思うようになった。
いいじゃん、それが私の「ありのまま」なのだよ。と。
そして、冒頭の「コレハオバサンデスネ」写真が撮られることになるのよ。とほ。
私は、ちょっと「おしゃれをすること」を侮っていたんじゃないかと思う。
なぜなら、何を着るのかということは、どういう自分でいたいのか でもあって
生きることとファッションは、強くつながっているからだ。
(そう思わない人がいても全然アリデス。ただ、私はそう思ってるのよ、ということ)。
ラクなものを適当にみつくろって着ていればいいや、という思いで選んだセーターを着続けていれば
一年で毛玉だらけになってしまう化繊の1000円のセーターに見合う人になっていくし
何度も吟味しながらちょっと背伸びをして選びぬいたセーターを大事に手入れして着続けていけば
それに見合った人になっていく。なんか、そんなことを改めて思って
背筋を伸ばして、自信を持って歩くためにも、きちんと服を選ぼうと思ったんだった。
高いものやブランド品を買わなくちゃだめってことじゃなくて。
でも、やっぱり「背筋が伸びる服」というのは、1000円ではなかなか売っていないし
上に引用した、季節になると一斉に並ぶアパレルの服の中に見つけ出すのも、なかなか難しい。
というわけで
なんつか改めて
ファッションに向き合おうと思った今年の冬。
こういう時、以前はよく「イメチェンしよ」と思ったものだけど
私がいま必要としているのは、イメチェンよりは「イメージフィックス」なのだと思う。
自分のイメージを固定(フィックス)していく。
あれこれいろんな服を試すのではなく、どこから見ても、あああの人だねという自分の核(コア)を探して、決めていくという作業が必要で、職業や社会的地位としてのコスプレを必要としなくなった還暦を迎えた自分のコアがどこにあるんだろう? という、なんとも根源的な課題に直面しちゃったわけである。
つまり、これまで自分がありのままだと思ってきたコスプレをやめて
ホントはどういう自分でいたいのかね? という自分探しみたいな作業になるわけで
でも、これは思った以上に難易度が高いのだなあ。
イメチェンは服を大量に買い換えなくちゃいけないけど、フィックスしていくのなら
まずはクロゼットの再確認から。
また気が向いたら続編を書きますデス。