第1回「彼を好きなら、しょうがない」 栗原はるみがいま語る愛と反抗期

有料記事栗原はるみ おいしいね、が聞けたから

聞き手・山内深紗子
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 今年、75歳になりました。最近、若い頃の自分だけが写っている写真を捨てました。ためらいなく、ビリビリと。終活です。どんなに良い過去があっても大切なのは、今とこれから。そう思って生きてきたから、過去を振り返らない姿勢を貫く意味もありました。

 《3年前、最愛の夫・玲児さんをみとり、ひとり暮らしに。「おいしいね」と言ってくれる人がいない日々と向き合っている》

 喪失感が深く、体重が5キロ減り、眠れず、涙がとまらない。仕事以外で料理を作ろうと思えない。そんな私を支えてくれたのは仕事と家族、スタッフでした。

 人間って、どうしても、良かった時に戻ろうとする。戻れないのにね。悲しい道と楽しく生きようとする道があり、最近やっと、簡単には悲しい道への橋を渡らないよう制御できるようになりました。でも、夫を失った悲しみや孤独は変わらず持っています。

 いつか、ひとり暮らしも、ひとりご飯も楽しめるようになりたい。どんな状況になっても、皆さんとお互いに励まし合いながら、丁寧に暮らし、新しい楽しみを見つけ、人生を悔いなく過ごしたいと願うようになりました。

 《今年3月、人生最後の雑誌と決めて『栗原はるみ』(講談社)を創刊した》

 急には元気になれないけど、でも、諦めてはいけないでしょ。

 朝5時に起き、窓を明け、夫の仏前に手を合わせ、掃除と洗濯。7時過ぎから英語、韓国語かギターを1時間ほど学ぶ。それから仕事をして、寝るのは午後11時ごろ。週末は試作をして、子どもや孫と過ごすことも。80歳まで生きられれば、めっけもん。そう思って、全力で仕事をすると決めました。

 料理家なので、残すのはレシピ本だけと決めてきました。自分のことを語ることも苦手です。でも、同じ境遇にいる人や、私の料理に親しんできてくれた方々に感謝の意味をこめて、一度だけ、人生を振り返ってみますね。これが終われば、あとは駆け抜けますよ。

料理家・栗原はるみさんに半生を聞く連載「おいしいね、が聞けたから」。全4回の初回です。

下田の旬の魚、工夫重ねた母の味

 《実家は、伊豆半島の下田で印刷屋を営んでいた》

 温厚な父と料理好きな母、ハンサムな兄との4人家族。みんな早起きで、毎朝、近くにあったお墓の掃除をして手を合わせる、そんな秩序に厳しい家でした。

 そのDNAを受け継いでいるのか、私も早起き。朝5時に起きて、ずっと動いていますね。整理整頓も好き。部屋も汚さない。仕事でホテルのツインにひとりで宿泊すると、チェックアウトの時に「こちらのベッドを使いました」と分かるよう、シーツの端を少し折って、お掃除係の方に知らせます。

 祖母と母の期待は、運動も勉強もできる兄に注がれていました。だからか、父は私をかわいがってくれて、買い物も一緒に行き、よく話をして、とても仲が良かった。父は、怒らない人でした。自分の家の庭だけでなく、ご近所の前もきれいに掃除するような人。今も私、人が嫌がることをしない。それは父譲りだと思います。その頃の私はというと、明るくてどこにでもいる子。何の取りえもない子でした。反抗もしなかった。

 《料理の基礎は母から学んだ。県立高校を卒業後、成城大学短期大学部に入学し、上京した》

 海が近かったから、アジ、イワシ、サバ、イサキなど魚ばかり食べていました。母は工夫して目先の変わった料理を作ってくれました。アジをすり鉢ですって、だしで伸ばしたすり流し汁、サバをしょうゆとショウガで味つけして炒(い)ったそぼろ風の常備菜。旬の手頃な食材を使い、家族の笑顔を思いながら、丁寧に、そして工夫も。私の料理の原点です。

 生活文化を学び、お友達と遊んだりもしたのですが、それがひとつも楽しくなくて。長い休みになると、すぐに実家に帰っていました。大学でやりたいこともなく、卒業後は実家に戻って、家事を手伝っていました。

 周りの子は20歳くらいで結婚する。でも私は、結婚願望もなくて。父も「はるみは、結婚しなくていいよ」と言うし。将来の展望や夢は、驚くほどなかった。今どきの子どもたちには、聞かせられないですよね。

 そんな私の前に現れたのが、夫となる栗原玲児さんです。

別荘で出会ったのは、洋食と彼

 実家のあった伊豆半島の下田は別荘地でした。留学経験があり西洋文化を体現しているデザイナーや建築家などの文化人、俳優などの芸能人が週末を過ごしにやってきていました。

 私が21歳の時のこと。招待された友人の別荘で、ブルーベリーマフィンをごちそうになり、おいしくて感動しました。

 その友人を介して知り合ったのが、玲児さんでした。タレントや司会者としてテレビの仕事をしていました。毎週、どこかの別荘で集まっては、顔を合わせるようになりました。私は母仕込みの下田の魚を使った和食を作っていました。

 《栗原玲児さんはレシピ本への寄稿で「はるみを一目見た瞬間、新聞でくるんだ白菜のようなお嬢さんだなと思った。肌の白さと瑞々(みずみず)しい精気、豊穣(ほうじょう)の予感と健やかさを一瞬のうちに見てとった」と振り返っている》

 玲児さんから見た私は、明るくて元気、料理もして、車も運転できる子という印象だったようでした。

 私は、アジのたたき、あえものなどの和食しか知りませんでしたが、玲児さんと友人は洋食。掘りごたつの家から呼ばれていくと、カトラリーが並んでいました。新しい世界を知りました。マッシュルーム入りのカレー、丸鶏のオーブン焼き。ブルーベリーマフィン……。彼がつくるビーフシチュー。お料理ってすごいんだなって。だからってその時、将来、料理の道に進むとはまったく思っていなかった。おいしくて、おしゃれで。ひとつひとつに感動しました。

 《引かれあった二人。栗原さんが24歳になる頃には、結婚を意識し始めていた》

 私には結婚の気配さえない…

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この記事を書いた人
山内深紗子
デジタル企画報道部|言論サイトRe:Ron
専門・関心分野
子どもの貧困・虐待・がん・レジリエンス
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