長野県中野市で男女4人が殺害された事件で、自宅に立てこもった後に殺人容疑で逮捕された青木政憲容疑者(31)は動機について、死亡した近所の女性2人に「『(ひとり)ぼっち』と言われたように聞こえ、恨みを爆発させた」と語ったとされます。
孤独や孤立の問題に詳しい早稲田大の石田光規教授(社会学)に、社会の中にある「ぼっちへの恐怖」とその背景について聞きました。
長野の事件 どう見る
――今回の事件の背景に孤独があるとしたら、私たちが考えるべきことは。
今回に限らず、孤立に行き着いてしまった人が、行き場のない思いを外に爆発させたとみられる事件を近年目にする機会が多いです。小田急線刺傷事件や大阪・北新地のクリニック放火事件、東大前の刺傷事件などがありました。もちろん大前提として、自分が孤独だから人を傷つけるという人は極めてまれです。
――孤独は個人の問題ではないのでしょうか。
その人の性格や努力による結果というだけではなく、経済的・社会的に恵まれていない人が孤立しやすい傾向が、先行研究や国の調査ではっきり明らかになっています。
これは社会の問題だというのが、先進諸国の政策や研究の潮流です。
――長野の事件の容疑者は31歳で、市議長を務める父親と母親と同居し、農業を手伝い、ジェラート店でも働いていたようです。
容疑者は、親の社会的地位や世帯年収からすると恵まれていると言えるかもしれません。
一方、本人の状況を見ると、「不安定な雇用の中にいる若年層」という、孤立しやすい人の平均的な傾向と符合します。昨年や一昨年の内閣府の調査では、孤独感が強く出ている年代は20~40代でした。
――容疑者は大学を中退して実家に戻ってからは、周囲とあまり接点を持っていなかったとされます。
高校卒業時点で転出すると、中高のつながりから一度切り離されがちです。さらに中退して大学の人との関係を断っていたり、その後実家に戻っても、家族とうまくいっていなかったりすれば、さらに孤立したのだろうと想像します。
「リア充」と「ぼっち」に二極化
――「ぼっちの恐怖」について著書で触れられています。
「ぼっち」は、1990年代から2000年代にかけて生み出された概念です。
ネットの普及もあり、私たちは、人と一緒に何かをするよりも個人単位で動くことが増えました。強制的な人付き合いが減ったぶん、人間関係は主体的に作らないとできない、自己責任のものになりました。
その結果、友人がいる人といない人、つまり「リア充」と「ぼっち」がはっきり分かれてしまって、中間がなくなったのです。
――なぜ二極化したんでしょ…