第1回「神様」角栄は言った「鉄道は赤字でよい」 ローカル線存廃の行方は
新幹線ホームの窓越しに、越後山脈の山並みが見える浦佐駅(新潟県南魚沼市)。駅前の一角に、その山並みの方に向かって右手を挙げている銅像がある。
銅像の主は田中角栄(1918~93)。新潟県出身で、72~74年に首相を務めた。ロッキード事件で失脚したが、「裏日本」と呼ばれた日本海側に光を当て、発展を導いた希代の政治家として、いまも敬愛する人は多い。
「神様みたいな人だな」。浦佐から越後山脈を越えた内陸側の福島県只見町で商工会長を務める目黒長一郎(75)は、田中についてそう話す。
福島県の会津若松と新潟県の小出を結ぶJR只見線は、2011年の豪雨災害で鉄橋が流されるなどの大きな被害を受け、途中の只見―会津川口間が11年間、不通になった。JR東日本管内でも指折りの赤字線で廃止も取りざたされたが、目黒は復旧を求める住民団体の事務局長として、署名集めなどに奔走した。「新潟側への生活路線として、観光客が来る条件として、鉄道一本でつながっていることはすごく重要。閉ざされた地域が活性化する」
全線開通は角栄の「功績」 元町長「エネルギッシュで気さく」
両端の会津若松と小出から途中まで延びて途切れたままになっていた路線をつなぎ、1971年に只見線として全通させたのは田中の「功績」とされる。
その年の8月29日。田中は、小旗を振って全通を祝う住民であふれかえった只見駅のホームに、祝賀列車に乗ってやってきた。
当時只見町役場の職員だった元町長の小沼昇(87)は、田中を駅で出迎え、全通祝賀会の会場となった只見小学校へ案内した。田中の印象は「エネルギッシュで、でも気さくで親近感が持てた」。厳しい残暑の中、約750人がびっしりと埋め尽くし熱気がこもった体育館で、田中はあいさつに立った。
「赤字線は取り払うべきである、鉄道はペイしないものはやめるべきである、などといっていた考え方に一大修正を加える。その発想の転換に先鞭(せんべん)をつけたのがこの只見線であります」
「採算見込めない」消極的だった国鉄
国鉄は1950年代からすでに、採算が見込めない地方の新線建設に消極的だった。元国鉄常務理事の吉武秀夫(97)は「運ぶ人も物も少ないところに通してももうからないのは子どもが考えたってわかる。断ることもできないので、全体の工事費の中で新線建設は後回しにしていた」と、当時の国鉄内の空気を語る。
そんな国鉄の態度に、自民党の政調会長で鉄道建設審議会の小委員長だった田中は62年3月、審議会で地方ローカル線の意義についてこう発言した。
「私は、鉄道はやむを得ないことであるならば赤字を出してもよいと考えている。本当にもうからなければならないならば国がやる必要がない。もうからないところでも、定時の運行をして経済発展という立場でこそ国有鉄道法(による鉄道)の必要があると思う」
只見線はその年の鉄建審で全線開通させる方針が決まった。
「鉄道の赤字額をはるかに超える国家的な損失」と田中角栄が考えた事態とは。記事後半で、「日本列島改造論」(72年)からひもときます。
東海道新幹線が開業した64…