国政復帰で「政権交代ファースト」、終生守った「護憲」の立場
■山本教授と横路孝弘オーラルヒストリーを読む(下)
衆議院が今年3月に公開した横路孝弘氏(1941~2023)のオーラルヒストリーから、2009年に実現した戦後政治史上2回目の「政権交代」の背後にあった北海道発の政治のうねりを、政治学者の山本健太郎氏とともに探っていく。(下)では、北海道知事末期から衆院議長就任までの時期(1993~2009)の「政権交代ファースト」の行動原理を読み解く。
1993年、いわゆる55年体制が崩壊し、38年続いた自民党単独政権が終わった。8党派からなる細川護熙氏(日本新党)の政権には、万年野党といわれた社会党が加わっていた。細川政権が1年未満で退陣すると、羽田孜氏(新生党)の政権が出来た。
しかし、94年には、自民党が、社会党や新党さきがけを取り込んで、村山富市氏(社会党委員長)を首相とする内閣をつくり、政権を再奪取した。野党に転じた新生党は、小沢一郎氏が公明党を取り込んで新進党になった。
一方、横路氏は無所属の北海道知事として3期目の折り返しに入っており、中央政界への復帰をめざして若手国会議員らと接触を始めていた。オーラルヒストリーで明かした横路氏なりの細川政権についての評価は、政権交代後にあるべき姿について、横路氏が得た教訓だった。
横路「細川政権は、どちらかというと、非自民、非共産政権だったんですね。画期的なのは、やはり1955年体制からの脱却、自民党一党支配を崩したということなんです。それに一歩を踏み出せたというのは非常に大きく評価されるところなんです。だから、本当は、この一歩をまた次へと、日本の民主主義のために継いでいかなければいけなかったわけですよ。その次の一歩がやれなかったんですね、細川さんの後で」(上巻330ページ)
つまり、横路氏は1993年の政権交代を評価しつつ、細川と羽田の両政権だけで政権交代が可能だという政治の流れが止まってしまったことを残念がった。
横路氏個人は1993年ごろ…