イスラエルの強硬姿勢の源流 ホロコーストともう一つの「虐殺」とは
イスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区攻撃のきっかけになったイスラム組織ハマスのイスラエル襲撃から、7日で1年になる。なぜここまでイスラエルは過酷な攻撃を続けるのか。ロシア・ユダヤ史やイスラエル史を研究する東京大学の鶴見太郎准教授は、イスラエルの姿勢が形作られたきっかけを、19世紀末のロシアで起きた出来事に見いだす。
イスラエル建国を担ったロシア・ユダヤ人
――イスラエルが過剰な攻撃を続けるのはどういった歴史的背景があるのでしょうか
第2次世界大戦でのホロコーストの記憶は「外から批判を受けようとも自衛のためには手段を選ばない」という現在のイスラエルの姿勢を強く規定しています。一方、ホロコーストよりも前、19世紀末から旧ロシア帝国内で起きたポグロム(ユダヤ人迫害)によるトラウマが源流にあることも重要です。
1948年のイスラエル建国を担った中心は、ホロコーストから逃れてきたヨーロッパのユダヤ人ではなく、旧ロシア帝国出身のユダヤ人(ロシア・ユダヤ人)シオニストたちです。19世紀末のロシア帝国には、世界のユダヤ人の半分にあたる500万人余りが現在のウクライナやポーランド、ベラルーシなどを中心におり、1881年から断続的に発生したポグロムを受け、この一部がパレスチナに移住し、のちにイスラエルを建国しました。
歴代の指導者も、ロシア領ポーランド出身の初代首相ベングリオン(1886~1973)をはじめ、ロシア・ユダヤ人の系譜が大半です。現在のネタニヤフ首相の父もポーランド出身です。
――ポグロムはロシア・ユダヤ人にどのような影響を与えたのですか
ポグロムは農村の不況を背景に起きました。比較的富裕とみなされていたユダヤ人を敵視した住民たちが、草の根レベルで虐殺や略奪を行った。ロシア・ユダヤ人は、共生していた周囲の住民から暴力を向けられたのです。
第1次世界大戦(1914~18年)や17年のロシア革命を経てロシア帝国も無くなり、革命後の内戦期にはさらに激しいポグロムが発生し、ウクライナを中心に6万~20万人ほどの犠牲者が出たと言われます。
ロシア・ユダヤ人はロシア帝国への帰属意識が比較的強く、あくまで帝国内での社会的地位を高めることに生存戦略を置いていました。しかしポグロムを経て、誰も自分たちを助けてくれなかった、という強いトラウマを持つようになります。
その中でロシア・ユダヤ人は、従来持っていた「ロシア帝国の構成員」「ポーランドの住民」「ユダヤ教徒」といった多面的なアイデンティティーを脱色していきました。最終的に残ったのは、宗教要素も取り除いた民族としての「ユダヤ人」という意識です。ロシア帝国などの既存の体制には頼っていられないとして、従来のユダヤ人の暮らし方から脱し、武器を取って戦う「強いユダヤ人」による自存自衛が必要だと認識したのです。
かつてはホロコースト被害者に冷淡だった
――「ユダヤ民族の国家」イスラエルの建国を目指した背景ですね
はい。ポグロムから逃れたロシア・ユダヤ人の一部は、第1次世界大戦後にはオスマン帝国領からイギリス委任統治領となったパレスチナに入植します。アラブ住民の反乱も起きましたが、これをユダヤ人はポグロムと同一視しました。自分たちは差別を受ける被害者であるという意識をより強くしたのです。
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