原爆は「一生を駄目にする」 被爆者が現地の高校生に語った妹の死
ノーベル平和賞の授賞式に、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表団として出席した長崎原爆の被爆者、横山照子さん(83)が現地時間の11日、ノルウェー・オスロのキューベン高校で自身の被爆体験や、44歳で亡くなった妹のことを語った。
横山さんは、日本被団協を構成する長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の副会長。1972年に相談員として活動を始め、半世紀あまり、被爆者健康手帳の申請など、様々な悩みを抱える被爆者たちと向き合ってきた。
ただ、語り部としては積極的に活動してきたわけではなかった。いつも、亡くなった妹の律子さんのことを思い出して、涙が出てしまうからだ。
横山さんはこの日、約200人の高校生らを前に、被爆体験をゆっくりと話し始めた。
45年8月、4歳だった横山さんは、姉とともに疎開し、長崎市内には父母と当時1歳の律子さんが残っていた。父親は、爆心地から約1・2キロの仕事場で被爆。片方の目が失明した。
爆心地から4キロで被爆した妹の律子さんは、のどや首に異変が起き、ほとんど声がでなくなった。入学した小学校にもほとんど通えず入退院を繰り返した。中学も1年生の途中までしか行けなかったという。「妹は学校に行きたい、行きたいと言っていた」と振り返った。
その後、目がほとんど見えなくなった律子さんは、44歳で亡くなった。人生の大半を病院で過ごした。生前、「私は何の罰を受けているの」と話していたという。
横山さんは、「原爆の被害というのは、あの時だけではなく、こんな風にして人間の一生を駄目にするんだということを皆さんに知っていただきたいと思った」と、妹の死を語った理由を高校生たちに伝えた。
最後に、「自分たちの歩む道を、ぜひ自分で決めてほしい。そのためには、戦争がない平和な世の中でしか自分の道は切り開くことはできないと思います」と訴え、律子さんの若い頃の写真を掲げた。
被爆者運動を牽引(けんいん)してきた先輩の被爆者たちを紹介するリーフレットも配り、故・山口仙二さんらの活動などを紹介した。
証言を終えた横山さんは、「ノーベル平和賞の受賞後の初めての活動が、若者との交流だったことがうれしい。みんな熱心に聞いてくれた。未来があると実感した」と語った。
今回の授業は、同校の新谷智子教諭(51)の呼びかけで実現した。「生徒たちが今日の経験から核兵器廃絶について、自分たちができることについて考えてくれたら本望です」とコメントした。
参加したエマ・ランソンさん(18)は「建物だけでなく、ずっと人間の命に影響を及ぼしている。こうしたことを二度と起こさないため、私たちも考えていきたい」と話した。
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