第1次大戦時のドイツ人捕虜、健康診断書見つかる 広島・似島で収容

柳川迅
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 第1次世界大戦時に広島市の似島の捕虜収容所で暮らしたドイツ人捕虜の、健康診断書が見つかった。収容所からの解放後に発行されたもので、専門家は「似島の捕虜収容所に関する文書や写真は極めて少ない。捕虜の実態解明に資する貴重な資料だ」とみている。

 診断書は1917~20年に似島に収容されていたフリッツ・リートケ氏(1877~1938)のものだ。生年月日、所属部隊、階級、既往歴などが記されており、兵役可否について「Tauglich」(適)、健康状態は「Gut」(良好)という記載もある。末尾には「Tomenoshin Endo」と軍医名が記され、「遠藤」の押印がある。

 日付は捕虜が解放された19年12月直後の20年1月10日付。書類を所有する広島経済大の竹林栄治教授(日独交流史)によると、解放後にドイツに帰国しなかった捕虜に発行されたとみられる。竹林教授は「健康であることを証明する書類があると、その後に就職する際などにスムーズだったのではないか」と話す。

 90人ほどの元捕虜が直接帰国しなかったとみられる。日本残留を希望したり、中国・青島(チンタオ)に戻ったりした人、中にはオランダ領だったインドネシアへ渡航を希望した人もいたという。リートケ氏は青島に戻り、その後ドイツに帰国したとみられる。

 昨年10月、リートケ氏の親戚が似島を訪れ、案内を務めた竹林教授に「研究に役立てて欲しい」と書類を託したという。

 似島の捕虜への健康診断自体は知られていたが、診断書の現物は確認されていなかったという。

病死した捕虜 陸軍墓地で追悼式

 第1次大戦中、似島の捕虜収容所で収容中に亡くなったドイツ人、オットー・パーペ氏の追悼式が11月に広島市南区の比治山陸軍墓地であった。

 パーペ氏は青島の発電所に勤務。第1次大戦時に軍に動員された。捕虜となり日本に移送され、18年に広島の病院で病死し、陸軍墓地に埋葬された。墓前での追悼式や慰霊祭は長く催されてこなかったとみられる。

 似島に収容されていたことを2年前に竹林教授が新資料で確認し、式を企画した。今回で3回目。第1次大戦の休戦記念日(11月11日)前後に催している。

 今回は竹林教授のゼミ生ら約30人が出席。来賓として在日ドイツ大使館の駐在武官ラルフ・ペルジケ大佐も出席し、パーペ氏の墓前に献花した。新たに見つかったリートケ氏の健康診断書についても式の中で紹介された。

 ペルジケ大佐は「普通の市民でありながら兵士として戦争に行かねばならず、二度と故郷を見ることがなかった人がたくさんいた。毎日の努力なしには平和もない」とあいさつした。

 竹林教授によると、似島の収容所で亡くなった捕虜は8人で、パーペ氏が最初に亡くなった。ほかの7人がどう葬られたかはわかっていない。

似島のドイツ人捕虜

 第1次世界大戦で日本はドイツに宣戦し、中国でのドイツの根拠地・青島などを攻撃した。日本は約4700人のドイツやオーストリア・ハンガリー帝国の捕虜を得た。似島の捕虜収容所は1917年2月に開設され、大阪の収容所から約550人が移送された。日本に初めてバウムクーヘンを伝えたカール・ユーハイム氏がいたことでも知られる。

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