「天声人語」の由来に新説 発禁ライバル紙の批判精神をリスペクト?

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編集委員・石合力
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 朝日新聞のコラム「天声人語」が初めて掲載されたのはちょうど120年前の1904(明治37)年1月だった。題名の由来についてはこれまで「中国の古典」とされてきたが、節目となる今年、古典とは異なる新説が現れた。ある研究者が、直前に発禁処分を受けた別の新聞の時事漢詩に極めて近い表現があることを発見。ライバル紙の批判精神を引き継ぐ意味合いがあったのではないかとの説を唱えている。

 江戸・明治期の漢詩文に詳しい早稲田大学の池澤一郎教授(近世文学)は同大学文学学術院の学術誌「近世文藝 研究と評論」(11月刊行)に寄せた論文で、大阪朝日新聞が最初の天声人語を掲載した前月の1903年12月、新聞「日本」に載った時事漢詩「天有聲(天に声あり)」に注目した。筆者は漢詩人で評論活動でも活躍した国分青厓(こくぶせいがい)(1857~1944)。

 その本文の冒頭に「天有聲、天有聲。弾劾閣臣陳民情。天雖無口使人言」(天に声あり、天に声あり。閣臣を弾劾(だんがい)して民情を陳(の)ぶ。天に口無しといへども人をして言はしむ)とある。天声人語の由来とされる「天有声、使人語(天に声あり、人をして語らしむ)」に極めて近い表現だった。池澤氏は、コラムのタイトルを天声「人言」でなく「人語」としたのは語調を整えるためで、意味上の違いはないとみる。

 青厓が論じたのは、その月に起きた「奉答(ほうとう)文事件」だった。衆議院開会時の明治天皇の勅文に対する奉答文に、当時の河野広中・衆院議長桂太郎内閣への激しい批判を盛り込み、混乱した議会は翌日に解散された。

 青厓は同事件から3日後に「…

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    小熊英二
    (歴史社会学者)
    2024年12月23日13時0分 投稿
    【視点】

    当時のメディアと知識人の状況がわかるエピソードである。「教養人の狭い世界」ともいえるが、共通の教養が「声が届く」ことへの信頼につながっていたともいえる。

    …続きを読む