「シカゴ」と呼ばれた開拓者のまち 市民は「ウィーン」をめざした

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斎藤徹
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連載「楽都の100年 音楽のまち・郡山」(1)

 今年9月1日、市制施行100周年を迎えた福島県郡山市は、市民の音楽活動が盛んで「楽都」と呼ばれる。だが戦後にかけて、この街には別の側面があった。市民自らの力で、音楽あふれる今の郡山をつくり上げたともいえる。どんな歴史があったのか――。

 「郡山市には二つの看板がある。一つは『東北のシカゴ』であり、二つ目は『東北のウィーン』である」

 相反する二つの性格をもっているのが郡山の特色だと、「郡山市史 第六巻 現代」(1973年刊)は記す。

 江戸時代は小さな宿場町に過ぎず、広大な原野が広がっていた郡山は、明治時代、猪苗代湖から引いた安積疏水(そすい)により開拓が進んだ。

 新しい農地には全国から多くの人々が入植した。大正末期の1924年9月には、人口約4万人の、全国99番目の市となった。

 福島県郡山市の音楽にまつわる歴史を5回にわたり、ゆかりの人たちと振り返ります。

 よそ者を拒まない「開放的な街」は、戦争からの復興期、反社会的な勢力も呼び寄せることになる。

 県警資料などによると、戦前から東北一円に勢力を張っていた暴力団が戦後の組織再編で勢力を弱めると、群馬県高崎市を本拠とする暴力団が郡山に進出してきた。縄張り争いが激化し、暴力・発砲事件が急増した。

 このころから、犯罪組織の抗争事件が絶えない米国第3の都市名で呼ばれるようになった。

繁華街で暴力団トラブル頻発、街はすさんだ空気

 「確かに当時は、『シカゴ』…

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この記事を書いた人
斎藤徹
郡山支局長
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