続「オアシスの森の再生プロジェクト」への考察 ・前編
(1)
7月に「オアシスの森の再生プロジェクトについて」記事掲載し、名古屋市にも意見を伝えたところ、10月初めに看板が架け替えられました。
さらに、10月下旬に新しい看板が設置されましたので、第2弾を書いてみました。
書き換えられた看板には、「かつて相生山緑地オアシスの森の山容景観を象徴していた赤松林は失われつつあります」と書かれ、「赤松林の景観を再生するために活動をしている」と述べています。
しかし、そのような森の景観の象徴は無かったことを、江戸期から戦後までの土地利用や植生について、資料を基に述べてみたいと思います。
そして、行政には、科学的な事実に基づいた視点をもって行動していただくことを願いたいと思います。
使用する地図は相生山南部、野並、菅田それぞれから近い場所です。名古屋市は「菅田住民の過去の記憶」を用いて「オアシスの森の山容景観を象徴していた赤松林」と表現をしているようなので、特に菅田・島田方面からの視界に注目して、各地図をご覧いただきたく思います。
(2)
最初に、江戸時代末期から明治時代初期に刊行された、尾張国の地誌「尾張名所図会」の「八事」と、オアシスの森周辺の地図(現在の国土地理院に当たる所が発行の地形図)を比較してみたいと思います。
【尾張名所図会:八事】
【地形図(明治24年)】
江戸期には日本全国で燃料や肥料などのため森林の過剰使用状態が続き、概ね「尾張名所図会」のような景色が里山の景色であったと考えられます。
明治24年の地形図の緑の部分はマツが生えていることを表し、その密度はわかりませんが、後述から想像していただけると思いますが、おそらく疎林が多かっただろうと思います。オレンジ部分は植生があまりない場所で、草本や、ハギ、マツの稚樹、ツツジなどが疎らに生えていたと想像されます。このような植生は「禿山に近いマツの疎林」と言えると思います。
その植生の様子は「尾張名所図会」とかなり似ていると思われ、江戸末期から明治中頃までは、植生の変化はあまりなかったと推察できます。
(3)
次に昭和12年ごろにはどうだったのでしょうか?
【地形図(昭和12年)】
この地形図から分かることは、ほとんどのマツ(緑△)が野並集落近辺と相生山南部の一部を除いて姿を消し、草本や、ハギ、マツの稚樹、ツツジなどが疎らに生えている禿山状態に変わったことと、桑畑(黄色で囲ったところ)が多くみられるようになったことです。
赤の矢印の方向が菅田集落になり、赤線は尾根筋を表しています。したがって、菅田の人たちは、日常的には赤線の南側は見ることは出来ません。たとえマツを見たとしても、ほんの僅かであったことでしょうし、現在の赤松プロジェクトの位置ではなかったものと思います。したがって、昭和12年の記憶がある人でさえ、マツ林をほとんど見ていないことになります。 《つづく》
by てんてこマイマイ