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23年10月19日のじゅん散歩@梶が谷 川崎の高台から登場 木のおもちゃで一勝負
テレビ朝日で放映の人気番組「じゅん散歩」10月19日の放送は川崎 梶が谷を散歩しています。高台の場所や木のおもちゃ専門店など番組で訪れた場所・名物を掘り下げて紹介します。
高津区役所保護課(高津福祉事務所) 地図 住所 〒213-8570川崎市高津区下作延2-8-1 電話番号 044-861-3243 管轄エリア 川崎市高津区全域 ホームページ 川崎市高津区役所のホームページ 高津区の
冨鳳山 養周院(→神奈川県川崎市高津区久地3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1604(慶長9)年に死去した僧の吉山が開山したと記される曹洞宗寺院です。2011(平成23)年11月28日には川崎市立久地小学校(→神奈川県川崎市高津区久地4丁目)の6年生児童110人による座禅体験が行われ、僧侶の過ごし方や修行の内容を体験する歴史授業が行われました。上形泰俊住職が地域の児童に様々な文化を体験してもらおうと、例年この時期に座禅修...
宇奈根氷川神社(→神奈川県川崎市高津区宇奈根)は、宇奈根の地が明治時代末期の1912(明治45)年の区画変更により東京府北多摩郡砧村(きぬたむら→東京都世田谷区)から神奈川県橘樹郡高津村に編入されたことから、1927(昭和2)年10月に砧村の宇奈根氷川神社(→東京都世田谷区宇奈根2丁目)を勧請して創建された神社と伝わります。かつては宇奈根地区の全域が北多摩郡に属しましたが、1945(明治12)年の区画変更で郡境が多摩川上に変更され...
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御嶽山神社(みたけやまじんじゃ→神奈川県川崎市高津区東野川2丁目)は創建年代等は不詳ですが、「韋駄天社」の名で古くから上野川村と下野川村の鎮守として存在し、幕末期の1851(嘉永3)年に草葺の社殿を新築をしたと伝わります。また、最初の東京オリンピックの翌年にあたる1965(昭和40)年に屋根替えを行ったといいます。御嶽山神社(→当時は韋駄天社)は、江戸時代には聚海山 正観院 西蔵寺(→神奈川県川崎市宮前区野川2丁目)が別当寺...
祇央山 龍頭院 妙法寺(→神奈川県川崎市高津区久末)は、開基不詳の天台宗寺院ですが、本堂には1976(昭和51)年春に山門前から出土した鎌倉時代中期の「建長七年」と彫られた鎌田政清(かまたまさきよ→源義朝の乳兄弟)の往生を願うと記された板碑が安置されています。1255(建長7)年は鎌倉幕府の5代執権北条時頼(→泰時の孫)の治世で、鎌田政清の没後100年(→百回忌)にあたります。「主君聖霊」とあるので政清の家臣の子孫たちによって建...
久末天照大神社(ひさすえてんしょうだいじんじゃ→神奈川県川崎市高津区久末)は創建年代等は不詳ですが、江戸時代に天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神とする神明社と天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祭神とする杉山社などを前身とする旧久末村の鎮守です。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、神仏習合の頃は下総千葉氏が信仰したことで知られる妙見菩薩が本地仏とされました。神明社は江戸時代には南林山 普門院 ...
南林山 普門院 蓮花寺(れんげじ→神奈川県川崎市高津区久末)は、室町時代の応永年間(→1394年~1428年)に僧の頼意法印が開山したと伝わる真言宗智山派寺院です。戦国時代には戦乱で寺が荒廃したようですが、徳川家康の関東入封後の1596(慶長元)年に小田原北条氏とともに滅亡した世田谷吉良氏の旧臣森弥五郎が中興に尽力したようです。江戸時代には、本山・末寺の制により致航山 感応院 満願寺(→東京都世田谷区等々力3丁目)の末寺とし...
星王山 宝蔵院 能満寺(→神奈川県川崎市高津区千年)は、もとは奈良時代の740(天平12)年頃に聖武天皇の勅命により創建された威徳山 月光院 影向寺(ようごうじ→神奈川県川崎市宮前区野川)の塔頭十二坊の1つとして行基が創建した天台宗寺院と伝わりますが、戦国時代の天文年間(→1532年~1554年)に現在地に移転し、僧の快賢によって開かれました。塔頭十二坊は本尊の薬師如来両脇侍像を守る12神の1体ずつを祀った堂宇で、「能満寺」もそ...
【川崎市高津区】ウーバーイーツ配達員逮捕「割り込みされ頭にきた」 軽トラック運転手に暴行
川崎市高津区の梶が谷交差点付近で23日午後、運送業の軽トラの男性(27)に殴るなどの暴行を加えけがをさせた疑いで、東京・世田谷区の自称・ウーバーイーツ配達員の男(30)を現行犯逮捕。男は、「割り込みをされて頭にきた」と供述しているという。
諏訪山 明王院 円能寺(→神奈川県川崎市高津区諏訪3丁目)は創建の詳細は不詳ですが、中世の頃に龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の門徒が創建したと伝わる真言宗智山派寺院です。戦国時代には住職不在で、堂宇が大破していたようですが、慶長年間(→1596年~1615年)に良識という僧が定住し、中興したと記されます。本山・末寺の制により江戸時代前期の1668(寛文8)年に西明寺の末寺となり、隣接する諏訪神...
白王山 正福寺(→神奈川県川崎市高津区北見方2丁目)は開基者は不明ですが、江戸時代前期に僧の快雅が開山したと伝わる真言宗智山派寺院です。江戸時代の頃は龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担う一方、白髭神社(しらひげじんじゃ→神奈川県川崎市高津区北見方2丁目)の別当寺として祭祀を司りました。この頃は白髭神社の神体は正福寺に安置されていたと記されます。宝物の中...
白髭神社(しらひげじんじゃ→神奈川県川崎市高津区北見方2丁目)は、創建の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1610(慶長15)年に北見方村の鎮守(→北見方総社)として伊勢猿田彦神社(→三重県伊勢市宇治浦田2丁目)を勧請して建てられたと伝わります。北見方にあるので「北見方白髭神社」とも呼ばれます。江戸時代には真言宗智山派寺院の白王山 正福寺(→神奈川県川崎市高津区北見方2丁目)が別当寺として祭祀を司りましたが、たびたび多摩川...
高津諏訪神社(→神奈川県川崎市高津区諏訪3丁目)は、徳川氏の旗本となった諏訪頼久(すわよりひさ→中世諏訪は「諏方」と書いた)が慶長年間(→1596年~1615年)に諏訪大社(→長野県諏訪市中洲宮・茅野市宮川・諏方郡下諏訪町)を勧請して創建したと伝わります。ただし、諏訪頼久は信濃諏訪藩の2代藩主諏訪忠恒(すわただつね)の三男として1644(寛永21)年生まれなので慶長年間には生まれていないことになります。頼久は1654(承応3)年11月に4...
大悲山 光明寺(→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)は、戦国時代の1571(元亀2)年に僧の専造坊が二子塚に創建した天台宗寺院を前身とする浄土真宗大谷派寺院です。『川崎市史』の光明寺縁起によると、甲斐武田氏の有力国衆で、武田氏滅亡ののち織田信忠(→織田信長の嫡男)によって滅ぼされた郡内小山田氏の一族小山田宗光(おやまだむねみつ)が専浄と称し庵を結んだと記されます。武田氏や小山田氏の一族・遺臣がこの辺りに移住するのは1...
二子神社(ふたこじんじゃ→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)は、江戸時代前期の1641(寛永18)年に、甲斐武田氏(→1582年3月11日滅亡)の有力国衆であった郡内小山田氏(→1582年3月24日滅亡)の一族で、この地で帰農した小山田兵部(おやまだひょうぶ→名前は不明)が創建したと伝わる神社です。1590(天正18)年7月に小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東入封を果たすと甲斐武田氏の一族や旧臣は徳川氏に取りたてられたり、あるいは帰農して名...
光永山 寿明院 西福寺(→神奈川県川崎市高津区梶ヶ谷5丁目)は、戦国時代から安土桃山時代までに創建された天台宗寺院です。本尊は阿弥陀如来像で、江戸時代には本山・末寺の制により浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)とされ、梶ヶ谷神明社(→神奈川県川崎市高津区梶ヶ谷4丁目)の別当寺として祭祀を司っていました。西福寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡梶ヶ谷村の条に次...
梶ヶ谷神明社(→神奈川県川崎市高津区梶ヶ谷4丁目)は、創建年代などは不詳ですが、江戸時代前期の元禄年間(→1688年~1704年)に創建されたと伝わります。江戸時代には光永山 寿明院 西福寺(→神奈川県川崎市高津区梶ヶ谷5丁目)が別当寺として祭祀を司っていました。明治時代初期の1870(明治3)年に近くの子神社(ねのじんじゃ)を合併し、1873(明治6)年に村社となりました。高度経済成長期の1968(昭和43)年に区画整理事業で境内が整理さ...
報恩山 功徳院 善養寺(→神奈川県川崎市高津区下作延5丁目)は、江戸時代前期に僧の多誉が開山した浄土宗寺院です。多誉は4代将軍徳川家綱の時代の1665(寛文5)年に死去しているため、創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により浄土宗の一乗山 究意院 教安寺(→神奈川県川崎市川崎区小川町)の末寺で、「五香散」という薬を製造して評判だったようです。本山の教安寺の住所が示すように、善養寺はもとも...
久地弁財天(→神奈川県川崎市高津区久地)は、守護尊寺の裏に建つ弁財天と江戸時代前期の元禄年間(1688年~1704年)にこの地に移り住んだ比丘尼(びくに)を祀った堂宇と伝わります。江戸時代には境内の池に蛇神が住むと信じられたため蛇神池と呼ばれ、干ばつでも水が絶えなかったことから「雨乞い弁天」とも呼ばれたようです。久地弁財天は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡久地村の条に「弁天社...
成田山 久地不動尊 守護尊寺(→神奈川県川崎市高津区久地)は大日如来を本尊とする真言宗山階派寺院で、大正時代までは浅草新吉原(→現在の東京都台東区千束4丁目)に不動尊としてありましたが、1923(大正12)9月1日の関東大震災で堂宇が全焼したため現在地に移転されました。江戸時代には浅草新吉原にあったため『新編武蔵風土記稿』橘樹郡久地村の条には守護尊寺の記事はありませんが、寺の伝承として次のような話があります。「久地...
久地神社(→神奈川県川崎市高津区久地1丁目)は、創建年代などは不詳ですが、神仏習合の江戸時代には赤城社といい、日蓮宗寺院の秋興山 浄元寺(→神奈川県川崎市高津区久地1丁目)が別当寺として祭祀を司っていました。1868(明治元)年に神仏分離令が発布されると天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神とする久地神社と改称し、明治時代前期の1881(明治14)年に近隣の3社を合祀しました。〖祭神〗・天照大神(あまてらすおおみかみ)久地...
秋興山 浄元寺(→神奈川県川崎市高津区久地1丁目)は、創建年代などは不詳ですが、僧の日応(→生没年不詳)が創建したと伝わる日蓮宗寺院です。江戸時代の本山・末寺の制では日蓮宗七大本山の1つで日蓮入滅の道場として名高い長栄山 大国院 本門寺(「池上本門寺」→東京都大田区池上1丁目)の末寺として久地村の檀信徒の宗旨人別改帳(しゅうしにんべつあらためちょう→今日の戸籍原本)を作成し、幕藩体制の一翼を担いました。浄元寺は、江...
橘樹郡衙跡(たちばなぐんがあと→神奈川県川崎市高津区千年)は、律令国家の頃の武蔵国橘樹郡の役所跡である橘樹郡衙(→郡家とも)跡である千年伊勢山台遺跡と、その西側に隣接して造営された古代寺院跡である影向寺遺跡から構成される古代官衙の遺跡で、7世紀から10世紀の官衙の実態とその推移を知るうえで重要であるとして、2015(平成27)年3月に国史跡に指定されました。〖千年伊勢山台遺跡(橘樹郡衙跡)〗丘陵上に営まれた縄文時代...
橘樹神社(たちばなじんじゃ→神奈川県川崎市高津区子母口)は、古墳時代前期の4世紀に大王(おおきみ)となったとされる第12代景行天皇(→実在したかは不明)の子で、第14代仲哀天皇(→実在性は極めて低い)の父とされる日本武尊(やまとたけるのみこと)とその妻・弟橘比売(おとたちばなひめ)を祭神として祀る神社です。明治時代に天照大神(あまてらすおおみかみ)も合祀されたため、今は三柱が祀られています。〖祭神〗・天照大神(あまてら...
溝口温泉 喜楽里|川崎市高津区|湯活レポート(温泉編)vol158
溝口温泉 喜楽里|川崎市高津区 ブラックゲルマの岩盤浴を楽しみ、大浴場では内湯と露天で茶褐色のナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉を存分に堪能。ヨモギ塩サウナとタワーサウナのWサウナセッションの後、うたた寝湯外気浴に揺られ夢心地に♨
無量山 昌谷院 養福寺(→神奈川県川崎市高津区新作)は、室町時代中期に僧の常範法師が開山したと伝わる天台宗寺院です。江戸時代には本山・末寺の制により浮岳山 昌岳院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)に末寺として幕藩体制の一翼を担いました。開山の常範法師は室町時代中期の1477(文明元)年に死去しているため、養福寺はそれ以前に創建されたことが分かります。1477(文明元)年は、関東では古河公方の足利成氏(しげうじ)と...
千年神社(→神奈川県川崎市高津区千年)は創建年代などは不詳ながら、古くから千年(ちとせ→旧岩川村)の鎮守として崇敬されていた天王社・御嶽社・伊勢宮が高度経済成長期の1955(昭和30)年1月21日に区画整理事業の一環で合祀され、千年神社として改築されたものです。天屋兒根命(あめのこやねのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)を主祭神として祀っています。江戸時代には星王山 宝蔵院 能満寺(→神奈川県川崎市高津区千年)が別...
新作八幡宮(→神奈川県川崎市高津区新作3丁目)は、創建年代などは不詳ですが新作村の鎮守社として崇敬され、幕末期の慶応年間(→1865年~1868年)に村内の熊野神社を合祀したといいます。神仏習合の江戸時代には、無量山 昌谷院 養福寺(→神奈川県川崎市高津区新作1丁目)が別当寺として祭祀を司っていました。〖祭神〗・玉依姫(たまよりびめ)・応神天皇(おうじんてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)〖境内社〗・飯綱大権現・...
茂岳山 観音院 増福寺(→神奈川県川崎市高津区末長2丁目)は、創建の詳細は不詳ですが、八幡山と呼ばれる丸い石を神体とする八幡神社(→当時は八幡宮)があった場所に、江戸時代前期の1690(元禄3)年以前に了典法師という僧が中興・開基したと伝わる天台宗寺院です。江戸時代には浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担っていたようです。増福寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂され...
医王山 薬師院(→神奈川県高津区新作3丁目)は、江戸時代前期の1655(明暦元)年に江戸麻布光林寺の住職盤珪により創建された木造薬師如来像を本尊とする臨済宗妙心寺派寺院です。川崎市内外にまたがる7つの寺院で構成される「稲毛七薬師」では、12年に1度の寅年に本尊が開帳されます。薬師院では開帳期間中、川崎市の重要歴史記念物に指定されている「絹本墨画着色 盤珪永琢画像」も特別公開されます。薬師院は、江戸時代後期の1830(...
松林山 安楽院 明鏡院(→神奈川県川崎市高津区末長)は、室町時代に僧の実海が建立したとも江戸時代前期の1628(寛永5)年に僧の慶丁が創建したとも伝わる天台宗寺院です。遠く多摩川を望む緑豊かな高台の上にあり、本堂の軒下に吊るされている鐘が、竹林を抜けてきた風を受けてカラカラと鳴るのが情緒的です。本堂の向かいには寺のシンボルとなる三重塔と平和観音像が聳え立っています。明鏡寺は、江戸時代には徳川将軍家の菩提寺の1...
末長杉山神社(→神奈川県川崎市高津区末長2丁目)は、創建年代などは不詳ですが、江戸時代には隣接する天台宗寺院・松林山 安楽院 明鏡寺(→神奈川県川崎市高津区末長)が別当寺として祭祀を司っていました。傾斜地にあるため末長杉山神社の境内から明鏡寺の本殿や三重塔を眼下に収めることができます。神仏習合の頃には約30cmの木の立像(→仏像)が神体だったようです。現在の社殿は2007(平成19)年に改築され、同年11月29日に入魂祭なる...
命府山 理生院 龍台寺(→神奈川県川崎市高津区久本2丁目)は、もともとの創建年代は不詳ですが、江戸時代前期に僧の良弁が中興・開基し、1649(慶安2年→3代将軍徳川家光の頃)に龍台院 理生寺から今の名前に改めたと伝わる天台宗寺院です。江戸時代の本山・末寺の制により龍台寺は浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺とされました。ご住職の話によると、龍台寺は明治時代初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動や...
久本神社(→神奈川県川崎市高津区久本1丁目)は、明治時代前期の1873(明治6)年に旧久本村の鎮守として尊崇を集めていた八幡社・杉山社上社・杉山社下社を神明社に合祀して創建した神社です。合祀前の各社の創建年代は不詳ですが、杉山下社と神明社は江戸時代までは命府山 理生院 龍台寺(→神奈川県川崎市高津区久本2丁目)が別当寺として祭祀を司っていました。もとの神明社は裏山の頂にあったようですが合祀の際に麓に移築したといい...
久本医薬門公園(→神奈川県川崎市高津区久本1丁目)は、1889(明治22)年の町村制公布により誕生した橘樹(たちばな)郡高津村の初代村長となった医師・岡重孝の邸宅があった場所です。岡家は江戸時代後期から8代にわたり医師の家系で、公園名の由来となる「医薬門」と「蔵」と「日本庭園」の一部が公園として残されており、母屋があった頃には黒澤明監督の映画『赤ひげ』の療養所(→小石川養生所)のモデルになったとも言われています。医...
青龍山 円福寺(→神奈川県川崎市高津区下作延7丁目)は、戦国時代前期に小田原北条氏の2代北条氏綱の家臣となった増田駿河守満栄が開基、僧の雪点が開山した曹洞宗寺院です。山号は、創建以来彗日山→蒼龍山→青龍山と変遷したようです。増田駿河守は、北条氏の軍役・課税台帳である『小田原衆所領役帳』によると下作延(しもさくのべ→川崎市高津区)で70貫の知行を受けているので、合戦の際には本人+9人の足軽を率いて戦場に赴くことが...
正覚山 真宗寺(→神奈川県川崎市高津区下作延2丁目)は、昭和時代後期の1980(昭和55)年に創建された浄土真宗本願寺派寺院です。市内の2300墓地を備える真宗寺川崎霊園(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)を管理運営する寺院としても知られ、溝の口本堂・川崎霊園ともに金色の大きな阿弥陀仏が建っています。真宗寺川崎霊園の参道には地蔵を中心とする無数の石仏群が連なっており、江戸時代中期の年号が彫られたものや、幕末期の庚申講が奉...
興林山 宗隆寺(→神奈川県川崎市高津区溝口2丁目)は、池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の直属末寺に属していた日蓮宗寺院です。創建時は天台宗で本立寺と称していましたが、戦国時代前期(室町時代中期)の1496(明応5)年に日蓮宗に改宗して宗隆寺と寺号を変え、現在に至ります。江戸時代には昨日ご紹介しました溝口神社(→当時は赤城社)をはじめ溝口村全域の社(やしろ)の別当寺として祭祀を司るなど、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)で...
溝口神社(みぞのくちじんじゃ→神奈川県川崎市高津区溝口2丁目)は、創立年代は不詳ですが、神社保存の棟札によると江戸時代中期の1709(宝永5)年に武蔵国橘樹(たちばな)郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されていて、神仏習合の江戸時代までは溝口村の鎮守・赤城大明神と親しまれ、赤城社と称していたといいます。江戸時代には現在の神奈川県伊勢原市の大山(おおやま)へ巡礼する大山詣(おおや...