兵糧攻めから生き残ったのに、食事したら死んだ? 医師らが論文発表

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清野貴幸
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 日本史上、最も有名な兵糧攻めの一つとされる戦国時代の「鳥取の渇(かつ)え殺し」では、多くの餓死者が出た。だが鳥取城の落城後、せっかく生き残った人たちも食べ物を口にした直後に死ぬという奇怪な現象が起きていた。その原因を推察した論文が、国際医学雑誌に掲載された。

 天下統一を目指す織田信長の命を受けた羽柴(後の豊臣)秀吉による鳥取城への攻撃は、1580(天正8)年から2年続いた。鳥取県立博物館によると、現在の県庁そばにある久松山(きゅうしょうざん)の山頂やふもとにあった城は、信長を「堅固な名城」とうならせたほど防御力が高かった。

 81年、秀吉は兵糧攻め作戦に出る。城内には武士だけでなく多くの非戦闘員も立てこもった。籠城(ろうじょう)は3カ月以上に及び、多数の餓死者が出た。最後は城主の吉川経家(きっかわつねいえ)が切腹することで城内の人命が助かった。

 ところが悲惨な事態は続いた。同館によると、信長の旧家臣、太田牛一の記録「信長公記」には、落城後、飢餓状態にあった人々に秀吉が粥(かゆ)を与えると「食に酔って」しまい、過半数がすぐに死んだと書かれている。秀吉の伝記「豊鑑(とよかがみ)」には、粥を大量に食べた者がすぐに死に、少しずつ食べた者は問題なかったとの記述もあるという。

医師や学芸員がたどりついた答えは

 この「奇怪な死」について…

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