第3回「ヤマトンチュの恩人」 坂本龍一さんと世界に届けた沖縄の音楽
坂本龍一さんがいたから沖縄の音楽は世界に広まった――。「童神(わらびがみ)」などで知られる沖縄を代表する歌手、古謝美佐子さん(69)が、坂本さんの死後初めてその思いを語った。「ヤマトンチュ(本土の人)を信じる力をくれた恩人」という。長年の親交を通して、2人が伝えようとしてきたこととは。
――坂本さんとの出会いは?
1986年のレコーディングでした。坂本さんは当時34歳で、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)解散後に新しいアルバムで沖縄音楽を採り入れようとしていた。私は知人の紹介で、子守歌1曲を歌うために上京しました。坂本さんは私の歌を聴いて「とても気に入りました」と言いました。自作曲を聴かしてくれて「これに合う子守歌はありませんか?」と私に聞きました。私は「みみちりぼうじ(耳切り坊主)」という童歌を歌い、2曲収録して沖縄に帰りました。
当時、YMOも坂本龍一も知りませんでした。
私は嘉手納基地の町で生まれました。もともとあった両親の実家は嘉手納基地の中に消え、車の修理工だった父は、私が3歳の時に米国人の居眠り運転で基地内で事故死しました。母は米国人家庭から洋裁の仕事を受けて、私と2人の弟を育ててくれました。
おじいも、おばあも沖縄戦を語らずに逝きました。母は戦争体験があるから、ヤマトンチュは大嫌いでした。「ヤマトンチュは口がうまいから信じちゃいけない」と言われて育ちました。悲しいことです。
私が民謡に出会ったのは2歳。当時は沖縄芝居の中で民謡が歌われ、役者はみな男性でした。私は歌ったり踊ったりするのをまねしたそうです。「女の子なのにとんでもない。もう連れてくるな」と芝居の人にも怒られたけれど、好きだから毎日通いました。
歌や立ち振る舞い、目線や手の動きを覚えてね。「三つ子の魂百まで」で、集中力が養われ、歌うことが私の一部になりました。民謡歌手になると言うと、周りの大人は大反対したけれど、でも好きだから、何を言われても貫きました。
坂本さんと出会った時、私にとっての音楽は沖縄民謡だけでした。
――収録の時の第一印象は?
初めて坂本さんと出会った日に収録した曲は、アルバム「NEO GEO」のタイトルにもなりました。「公演も一緒に」と頼まれました。でも正直言うと、最初の頃は坂本さんの作る音楽に興味を持てなかったんです。でもこの人は、「確かなプロ」だとは思いました。全神経を音に集中させていることは最初から感じましたね。
いつも丁寧 素直に「ごめんなさい」
むしろ、人柄に引かれました…
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