第3回「生意気」だった闘士が遺した思想 ポンペと結城庄司のアイヌ運動
1977年12月21日、北海道大学構内に手書き看板の大文字が躍った。
「アイヌ民族差別 教授よ! 謝罪し責任を取れ」
その近くでは、サングラス姿で防寒着に身を包んだアイヌ男性が雪の上にあぐらをかいていた。
男性の名前は結城庄司。北大経済学部長だった男性教授が、北海道経済史の講義で「アイヌの歴史は切り捨てる」とし、さらに差別発言を繰り返したことに抗議し、座り込みを始めた。
結城は、阿寒湖アイヌコタンの建設に参加した後、30歳の若さで北海道ウタリ協会(当時)の理事に就任。「アイヌ解放同盟」を立ち上げ、18世紀のアイヌ民族の決起による犠牲者を供養する儀式を始めるなど、民族の復権と文化復興のために活動していた。
石井ポンペは当初、「若き理事」として注目を浴びながらウタリ協会とは独自の動きをする結城を「生意気なやつ」と思っていた。
ポンペは、28歳でウタリ協会札幌支部の結成に参加。支部の役員を務め、平日は札幌市のし尿処理場を管理する仕事をしていた。
結城が北大で抗議をしていた頃、ポンペが運動方針について口をはさんだ。すると、酒を飲んでいた結城が激怒して殴り合いのけんかに。自衛官時代も格闘訓練の経験はあまりなく、結城に柔道技を決められた。
「参った!」…
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