ニッカ勤務「どうしても」 日の丸飛行隊の故笠谷幸生さんが描いた夢

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能田英二 古畑航希
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 レジェンドが逝った。札幌五輪金メダリスト笠谷幸生さんが23日に死去したと全日本スキー連盟が発表した。口数が少なく、気むずかしい。そう言われることもあったが、子供を愛し、故郷を大切にした人生だった。

 笠谷さんは安らかな顔をしていた。

 24日の通夜に参列した札幌オリンピックミュージアムの名誉館長で1994年冬季リレハンメル五輪複合団体の金メダリスト阿部雅司さん(58)はそう振り返る。「日本の冬季五輪、金メダル1号。国民の注目をずっと背負ってこられたと思います。ホッとしたのでしょう」。

 通夜では生前のエピソードも紹介された。笠谷さんは家庭でも口数が少なかった。ただ約2年間、オーストリアにコーチ留学した時は違う一面も見せたという。その時の家族写真が棺に納められていた。阿部さんは「家族だんらんをいちばん、味わえた時期だったのではないでしょうか」と話す。

 北海道仁木町で生まれた。72年の札幌五輪、スキージャンプ70メートル級で優勝。同種目では日本人選手が銀メダル、銅メダルと表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」と言われた。

 幼少の阿部さんは、大人たちが大騒ぎしていた様子を覚えているという。自身が競技を始め、初めて欧州を訪れた時、阿部さんが日本人だと気づいた現地のファンから「カサヤ」「カサヤ」と声をかけられた。笠谷さんの存在の大きさをかみしめたという。「私にとって、ずっと神様みたいな人でした」

 笠谷さんは実家近くの余市に工場をもつニッカウヰスキーに約30年間勤めた。

 同社の社史には、金メダルを獲得したときの熱狂ぶりが描かれている。

ススキノを営業で駆け回る ニッカでは広報部長も

 「日本中の目、世界の目が…

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