爆発しなかった手投げ弾、父は妹2人を手にかけた 楽園の島は地獄に

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斎藤徹
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 「きのうのことはおろか、きょうのことすらすぐ忘れてしまう。そのオレが、80年前のことは鮮明に覚えている。この意味が、あんたわかるか?」

 伊藤久夫(89)は、福島県会津坂下町の自宅でそう言うと、訥々(とつとつ)と語り始めた。

 それは、1944(昭和19)年の8月、日本から約2500キロ南の太平洋の小島、テニアン島で体験した、9歳でのできごとだった。

 東北地方が冷害で大凶作となった34年の翌年、伊藤の家族は、生きるための糧を求め、第1次大戦後に日本の委任統治領となったテニアン島に、会津坂下から移住した。

 父・久吉は、旧会津藩士が興した製糖会社「南洋興発」に職を得た。

 民間人1万5千人あまりが暮らす常夏の島は、果物や海の幸など食料が豊かだった。

 家族は両親と姉に加え、島で生まれた2人の妹の6人に増えた。

 41年12月には太平洋戦争が始まった。日本軍は東南アジアなどで連戦連勝、島内には日の丸がはためき、島の国民学校の生徒は毎朝、北に向かって宮城遥拝(きゅうじょうようはい)をした。

 子どもたちは戦争ごっこに明け暮れた。島の生活は平穏そのもので、学校に上がったばかりの少年にも「楽園」と思えた。

忍び寄る戦争の影 たどり着いた洞窟で手渡された六文銭

 だが、42年6月のミッドウェー海戦での敗戦を機に、島にも戦時の緊張が色濃くなってゆく。

 44年2月には最初の空襲があり、生徒たちは防空壕(ごう)掘りや飛行場建設にかり出された。

 6月には、島の8キロ北にあるサイパン島に米軍が上陸し、激しい戦闘の末、日本軍は全滅した。

 7月になると、島に米艦隊の艦砲射撃が浴びせられ始めた。

 この頃、伊藤家に陸軍第50連隊の衛生兵がやってきた。父は、薬や包帯に加え、手投げ弾5個が入った箱を渡された。

 学校では「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」を繰り返し唱えさせられた。

 先生も両親も、近所の住民も、表情に悲愴(ひそう)感がにじみ出るようになっていた。

 「米軍の捕虜になったら、男は殺されるか奴隷にさせられる」

 「女は米兵の慰みものにされ、最後は殺される」

 そんな流言が島中にあふれかえり、伊藤少年も「絶対捕虜になんかならない」と誓った。

 母・キクは3歳になった末娘の正子に「死んだらきれいな花がいっぱい咲いているところに行けるのよ」と語り、正子は「母ちゃん、早く死のうよ」とせかした。

 7月24日、ついに米軍が島に上陸した。日本軍との激しい地上戦が始まった。

今から80年前、太平洋の小さな島テニアンで、戦争の極限状況がもたらした悲劇がありました。戦後79年の夏、「地獄」を生きのびた老人の一言一言に、耳を傾けました。

 志願兵を除く民間人は、身を…

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この記事を書いた人
斎藤徹
郡山支局長
専門・関心分野
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