Re:Ron連載「松本紹圭の抜苦与楽」第7回
コロナ、そして、生成AI(人工知能)。ここ3年で、私たちの暮らしや仕事のスタイルは大きく変わりました。リモートワークで自宅にいながら、資料作成はAIがやってくれる時代になりました。
そんな中、こんな声を中間管理職の方からよく聞きます。
「なんだか最近、職場に活気がなくて。ひとまず業務は回っていますが、新しいイノベーションが起きてくる気配が感じられません」
「リモートワークが導入されて、出社する人としない人に分かれてしまい、さっぱり様子がわからない部下が何人かいます」
「なんでもAIが自動化してくれるのは便利かもしれませんが、人間性が失われていくような気がします」
変化した「Humanity」の意味
今起きている大きな変化の本質が何なのか、見極められている人はまだ多くないかもしれません。
私が見る限り、それは「人間性(Humanity)」の意味の変化です。
生成AI以前と以降で、Humanityの意味が大きく変化しました。人間が人間であるゆえん、すなわち人間性を考えようとするとき、AI以前は「人間は動物とどのように異なるか」が論点でした。それが、AI以後は「人間はAIとどのように異なるか」へと、論点が変化しました。結果的に、「人間もまずは動物であるという点で、AIと異なる」という事実が、人間性を考える上で重要になっています。人間性という言葉の意味が、「非動物性」から「動物性」へと、百八十度、転換しつつあるのです。
その転換は、コミュニケーションにも影響を与えます。動物は文字を持ちませんが、声で会話をしています。であるならば、「人間性のあるコミュニケーション」の意味も、これまでのような文字偏重の時代を経て、生身での音声コミュニケーションへと変化していくはずと、私は予想しています。
そのような観点からすると、コロナによるリモート化の潮流において、最も見過ごされているものの一つが、「挨拶(あいさつ)」です。
ここでいう挨拶とは、「おはようございます」「お疲れさま」といった声がけのみならず、会釈やお辞儀、手を合わせるといった行為や、視線を交わす合図のような交流を含みます。つまり、存在と存在の間に生まれる身体性を伴う応答です。
私たちの日常には、たくさんの挨拶があちらこちらに埋め込まれています。世界各地にそれぞれの異なる挨拶がありますが、繰り返される言葉そのものに、目新しい情報はありません。言葉そのものに唯一性の意味がなくとも、そこには生身の声や表情があり、瞬間的に生じる気配やたたずまいをまといます。挨拶を通して、言葉を超えた刹那(せつな)的な無数の情報が行き交います。私たちはそうした身体的交流をしながら、お互いの様子を感じとり、「今の状態」を聞き合い、共にする場のさじ加減をはかり、程よいところを調整し合っているのです。
毎日同じ繰り返しだからこそ、変化に気づきやすいものです。体調がよければ声色は明るくなるでしょうし、心配事があれば表情は曇って声にも力がなくなるでしょう。まなざしを向け合い、お互いの存在に意識を向けてコンディションをケアし合うのが挨拶です。
元々、「挨拶」とは禅僧の間で師匠が弟子と押し問答をして、修行や悟りの深さを試す『一挨一拶(いちあいいっさつ)』から生まれた言葉です。『挨』も『拶』も「おす、せまる」という意味をもち、お互いを推しはかることを表します。その媒体となるのが声であり、会釈であり、まなざしであり、文化によっては握手やハグといったことも含まれるでしょう。
言語が発明されて以降、人間…