甲辰年十一月廿四日。摂氏▲2.3/11.2度。快晴。家人と散歩しながら千波湖畔の茨城県近代美術館へ。
没後100年 中村彝展 - アトリエから世界へ | 茨城県近代美術館
中村彝没後百年で彝の作品を各地から集めた大回顧展。
彝は明治44年(1911)に新宿中村屋のアトリエに寄宿。中村屋創業者相馬夫妻に家族のやうに招き入れられ彝の大正3年(1914)の作品「少女裸像」と着衣「小女」のモデルが相馬家の娘(俊子)で遉がに相馬夫妻も娘が彝の作品のモデルとして文展に飾られることに抵抗あり俊子の在学する女子聖学院でも校長がこれに抗議するほど。彝は俊子との愛が叶はず精神的にも追ひ詰められ病弱な身体はさらに蝕まれることになる。彝の代表作といへる「エロシェンコ氏の像」のモデルとなつたウクライナ出身のワシリー=エロシェンコも中村屋に寄寓してゐた人。
健康の悪化のなか関東大震災(1923年)で生き残れたことに彝は強い生命感を抱くのだが翌年37歳で天逝。中村彝は水戸の生まれでアタシと同じ市立五軒小学校が母校。五軒小学校の旧校舎(現在の水戸芸術館)の音楽室の手前、左側に史料室があつて扉を開けて薄暗い部屋に入ると、そこに衰弱した中村彝のソファに坐つた写真と、有名な「老婦の像」の複製画が壁にかけてあつた。いずれも彝が亡くなる大正13年のもの。写真は岡田紅陽(岡田紅陽写真美術館)の撮影と今回のこの展覧会で知つた。五軒小が市内の金町(戦前の女子師範、戦後の県警察学校跡地)に移転して、そこが偶然にも中村彝生誕の地で学校敷地内にその碑がある。彝もまさか自分の生家のあとが五軒小になるとは思つてもゐなかつただらう。
この展覧会の副題「アトリエから世界へ」は彝が病弱で国内の移動ですら難あり欧州に絵画を学ぶことすら能はず西洋絵画は当時貴重だつた輸入物の画集で、しかも白黒印刷で見て、そこから何かを吸収するばかりで彝が下落合にあつたアトリエ(新宿区立アトリエ記念館)にあつて視覚は世界に広がつてゐたことを表してゐる。本日午前中に参観してゐたら美術館のロビーでは午後にピアノとバイオリンのコンサートがあるやうでリハーサル中の音楽が流れてきた。よく知られたクラシックの曲が聞こえてくる。帰宅して家人がネットで知つたのだけれど、こんなコンサートだつた。
第2回ミュージアムコンサート:百年忌記念『彝が聴いた音楽』茨城県近代美術館
折しも本日が中村彝の命日で百年忌だつたとは。早晩に家人とそば眞(黒羽根町)へ。サッポロ黒ラベルでタコの唐揚げ(これがまことに美味)。酒は来福。厚焼きたまご。けんちんそばをヌキでけんちん汁だけいたゞき酒もずいぶんと飲んで蕎麦をせいろで。陋宅から10分も歩く距離にこんな美味しい蕎麦やがあることはまことに幸せ。実は昨日、母が午前中に病院へ送迎の帰り、こちらもきちんとした手打ちそばを供す蕎麦やに寄つて二人でけんちんそばを注文したのだけれど、けんちんはもうかなり21世紀的に進化して味も本当にあっさりでごま油すら味覚もなく野菜の切り方も丁寧すぎて何だかけんちんではないものになつてゐた。本日のけんちんはかなり味も濃く昔ながらのものであつた。