「一人だったら絶対作らない」という食卓の背景には何があるんだろう? ってことを一人の食卓から考える

2017.11.13 Monday 13:03
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    インスタグラムにごはんの写真をたまに乗っけている。

    なんでそんなことを始めたのかってことは前のブログに書いた。

     

    それで、そんなひとりごはん写真を見た人から、かなりの頻度でこんなことを言われるということがわかってきた。

     

    「一人なのによく作るねー! すごいよ。

     私、もし一人だったら絶対何もしないと思う」

     

    みたいな。

     

     

    それ、たぶん褒められているんだと思うんだけど

    不思議なことに

    そう言われたあとの自分の気持ちは

    褒めてもらった時のように、ぽこっと脳内に小さなドーパミンの放出が起こることはなく

    わあ、うれしいなあ、ありがとう! という気持ちが芽生えることもあまりなくて

    なんだか、とても不思議な微妙な気持ちになる。

    そう、どちらかというと、少し

    凹む。

     

     

    それ、なんでなんだろうなあということをずっと考えていた。

     

    言ってくれる人は本当に優しく本心で言ってくれているのはわかっているし

    すごいなあ、えらいなあと思ってくれているのに変わりはなく

    でも

    その時に自分の中に芽生えるもの

    そしてもしかしたら

    言ってくれた人の中に芽生えるものというのは何なのか。

     

     

    そんなことを今日は考えてみたいと思った。

     

    @楽しいと作りすぎるのが難

     

    かなり前のことになるけれど

    5人家族の友人が

    ほかの家族が全員出かけてしまって、昨夜は一番下の子と2人だけの夕ご飯を食べたのだ、と言った。

     

    そうしたらその子が

    「お母さんと二人だけなんて寂しすぎる。こんな静かな夕ご飯は嫌だ」と言うので

    「”まあ、なんてことを言うの。世の中にはそういうおうちもたくさんあるのよ。贅沢を言っちゃだめ”と怒ったのよ」

    と話されたので、ちょっと(いや、かなり)ムッとして

     

    「うちはいつも ”そういうおうち” だけど?」

     

    と言ったら、悪びれる風もなく「そういうことじゃなくって私と二人じゃ嫌だってどういうことなの! ってことよ」と笑っていたけど

     

    その時の私は、

    自分自身の状況に、ではなくて

    ”そういうおうち” と、とっさにカテゴライズされてしまうメンタリティみたいなものに、ちょっとばかり凹んだ。

    彼女の脳裏に「寂しい食卓」としてイメージされた風景は、我が家の日常ってことか、と。

     

    いや、言うほうは大仰には考えていないんだと思う。

    ただ、私のような人生のプロセスを持つ人間にとっては、この手の

     

    「欠け」

     

    を無意識に指摘される言葉のようなものに敏感なだけなんだろうと思う。

     

     

    似たようなことは、いろいろある。

     

    食べ盛りの子供を持つ人たち同士で

    「毎回ごはんを5合炊いても足りない。コメの消費量半端ないよね?」 と同意を求められたので

    「いや、うちは2合炊いて冷凍しても足りる」と言ったら

    「はああ? 信じられない! ああ、なんてうらやましい」とすごく驚かれたけど

     

    その時も、ちっともうらやましがられている、という気がしなかった。

     

     

    夫とか子供の数とか兄弟とか、いわゆる家族って構成のもの。

    その「欠け」のようなものを、コメの消費量になぞらえて、ただ指摘されたという気になった。

    不思議だけれど、自分自身の中にも、それは本来はあったほうがよいもので

    持たない自分はそれをなんらかの「欠け」と認識してしまうのだなあということを

    子育ての間はよく痛感したものだった。

    子供に対する責任感からくる、離婚後の負い目みたいなものもあったのかもしれない。

     

    もちろん、離婚→シングルで子育て→今一人暮らし の私には存命の両親がいて、子供もいて、仕事も家もあり

    「欠けている」なんてことを思うこと自体が無意味だと言うことはよくわかっているのだけれど

     

    ふだん自分がまったく気になんてしていないことを

    何かのきっかけで外側の世界から

    「欠けている」と指摘されたような気持ちになってしまうというのは

    人の精神構造というのは不思議なものなんじゃなあ。

     

     

     

    ということで、たぶん冒頭の

     

    「すごいわね、私、一人だったら絶対に何もしない」

     

     

    と語りかけられることは

    その手の「欠け」の指摘につながる部分があって、

    「一人であるわけがない」場所にいる人から

    「あなたは一人」のメッセージを自分が受け取ってしまうから

    なんとも不思議な気分になるのかな?

     

    と、まずは想定してみたんだった。

     

     

    いやいや、ところがだよ。

    これは全然的外れのような気がしてくるのだった。

     

    子育てを終えて、子供が巣立って、本当に自由にいま一人暮らしになってみたら

     

    「一人のごはん」って

     

     

    ちっとも「欠け」ではなく、

    私にとっては、それはもう楽しくて、面白くて仕方がないという世界なんだった。

     

    えっと、これはあくまでも「私にとって」だから。

    嫌いな人がいても、苦手な人がいても、ぜんぜん、いい。

    ただ、私にとっては、好きな時に好きなものを好きなように調理して食べて良い、というのは

    何にもまさる楽しみだし

    絵を描いたり文章を書いたりすることの延長線上にある、一種の創作活動なわけで

     

    だから、一人のごはんを作る

    と言う行為は、義務でも苦痛でも負担でもなんでもなく

    私には純粋な楽しみとして、日々の中に存在するようになった。

     

     

    これは、

    我が家が息子ひとりであったとしても

    誰か別の家族のためにごはんを作っている時には

    あまり感じられることのなかった感情で

    だから

     

    ごはん作りに関わる気持ちのありかって本当に面白いな、と思うわけなんである。

     

     

    「料理」をして食卓を整えるという行為自体は

    こんなに豊かで楽しさに満ちているのに

    それが「家族」に向いていた時代は、義務とか体面とかが不思議にからみあって

    よくもわるくも、なんだか不思議なことになっていたんだなあ、と今更ながら思う。

     

    それは時には「大変だ」という辛さであったり

    もしくは「夫や子供にはおいしいものを食べさせたい」という愛であったり

    「忙しくてもちゃんと料理はしたい」という自己に向けた意地のようなものであったり

    たぶん、子育て中にインスタがあったら、そこに手料理やお弁当の写真を載せて

    「自分はいい母親なのだ」という自己確認をしていたかもしれない。

     

     

    食べること、料理を作ること

    ということの背景にある、そんな、いろんな気持ちの渦みたいなものは

    子育てを終えて一人暮らしになってみたら、いたってシンプルなものになり

     

    コメの消費量とか食卓の人数とか

    そんなことで自分の「欠け」を刺激されることはなくなった。

     

    ほんとに不思議だけど

    まったく、なくなった。

     

     

     

    家族の分の食事を、毎日、人数分作り続けていくというのはほんま大変な仕事だと思う。

    特に、日本で。

     

    だからそれに毎日取り組んでいる人にとっては

    「一人だったら絶対にやらない」 ってのは

    一人になってまで、こんな大変なこと、まっぴらごめんだよ! というメッセージなんだと思う。

     

    でも、もしかしたら

     

     

    その中には

     

    「一人になってしまう」ことへの気持ちの回避も

     

     

    実は混じり合っていたりしないか。

     

    一人暮らしの人に「よくやるね、私は何もしないよ」って言われても何も思わないのに

     

    一人ではない場所から

    一人「だったら」やらない、と仮定されることに、私の気持ちが反応するのかもしれない。

     

     

     

     

    私には今年84歳の父と、彼をプチ介護中の81歳の母がいて

    その母が私によく言うんである。

     

    「いづみちゃん、ほんとにいいわね、ひとりで。

     すごくうらやましい。

     パパのごはん作らなくていし、自由に出かけられるし。

     私も一人暮らししてみたかった。どんなに気楽か」

     

     

    人生で、一度も一人暮らしをしたことがない人が、81歳になって一人暮らしの私を羨んでいるんである。

     

    そんな時には

     

    「一人で暮らす、一人っきりで生きて行くって、すごく自由だけれど

     それには責任が必要で、それはとてもハードなこともたくさんあるよ。

     私の自由は、それと引き換えに手に入れているもので

     ごはん作らなくていいわねとか、自由に出かけられていいわね、とか

     そういうこととはちょっと別のところにあるように思うよ」

     

    みたいなことを話す。

     

    一度家族を作って、そこから止むを得ず「ひとり」になり、

    今日も「ひとり」で暮らして行くという過程の中には

    ひとつひとつ乗り越えなくてはならなかった障壁のようなものがたくさんあって

    一言では説明しきれない時間の積み重ねがある。

     

    そこには自分自身でさえも、実際に直面してみないと想像もできなかったというような

    気持ちの変化や葛藤があったわけで、それを幾度となく経験しながら、今がある。

     

    自分の中にある、そんな「一人で暮らしていく」という軸のようなものの大切な一つが

    食事だったりするわけで

     

     

    だから、それはとても大事に

    面白がって

    まあ、やってるんである。

     

     

    そこを

    「一人だったら絶対やらない」

     

    と言われてしまう一抹の寂しさというか

    たぶん

    そんな感情が自分の中にあるのかもしれない。

    それは相手への違和感というよりも、自分自身に対しての自負のようなものだ。

    これは、ちょっとした気づきで、なんだか少し、自分のことが腑に落ちたような気になったのだった。

     

     

     

     

    ちょっと内容は違うけど、以前友達が

    「離婚した友達に、”大変だったわね、かわいそうに。困ったことがあったらいつでも言ってね”って急に集まってくるママ友たちがいたら、それはたぶんそれ言うことで ”よかった、私はこんなヘマはしないわ” って自己確認したいだけなので、放っておくがよし」

    って言ってたことあって、それはかなりいぢわるな目線だけれど、言われてみればそれも人の感情の複雑さの一面かもしれない。

     

    自分の言葉の中にある、アンヴィバレントな感情とか

    人の言葉から受け取る感情の不思議さとか。

    そんなことにひとつづつ気づいていくというのも、生きる面白さ、楽しさだという気もする。

     

     

    ってなことで、ごはんは一人でも作る人もいれば、作らない人もいる。

    私は作ってはいるが、それは偉いことでも立派なことでもなく

    ただただ、自分が楽しいから、そうしたいから、やっている。

    絶対やらないと思う人も、本当に一人になったら、楽しく作るかもしれないし、作らないかもしれない。

    でもそれは、本当に一人になってみてからでないと、あまりよくわからない。

    私も、そうだった。

    ほんと、ただ、それだけのこと。

     

    年齢を重ねるといろんなことがシンプルになっていく。

    それはそれで、ええこっちゃ、と思ったりしてる。

     

    category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

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