経験したことのないことは、ヒアリングしても想像してもやっぱり本当のところはわからないもんなんだよ

2018.02.19 Monday 21:55
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    「おかあさんだから」の歌詞問題はさんざんあちこちで取りざたされたので

    改めて何を言う気もないのだけれど

    それに関していろいろ思うところがあったので、書いてみる。

     

    あ、後先逆になりましたが、ご無沙汰してました。

    もう3ヶ月ぐらい書いてなかったよ。

    ブログって何なのかなあ、こういうの書く意味あるのかなあ、なんて今更ながら逡巡してたら

    父親が死んじゃったんだよ。

    そんで、あれこれいろいろ慌ただしく。

    久しぶりに来てみたら、あったかいコメントくださってる方がいて、

    なんだかありがたいなあ、また書いてみようかなあと思った。

    ありがとうございます。

     

    それで、表題のことに戻る。

     

    「経験」っていうのは、やっぱりものすごいことだよ、って思う。

    というか、人って、さほど多くの想像力は持てないので

    やっぱり経験したことのないことは、想像では絶対に網羅できないものだ、と切に思う。

     

    自分自身のことですら、いざ、経験してみたら

    「えー、こういう時ってこんなこと思うものなの?」

    「うそ、自分でもこんな気持ちが湧き出てくるもん?」

    ってことはいっぱいある。

    いわんや、人のことなんてわかるわけないわ、と思うわけなんである。

     

     

    最近、自分がこんなことを思うのか! こんな風になるのかっ! と驚愕したことのひとつに

    息子の独立っていうのがある。

    シングル子育てしてきた私の場合、息子が就職して、通勤が遠くなっちゃったので一人暮らしするよ、と家を出るってことは、すなわち私も一人暮らしになることを指す。

     

    世の中でよく

    卒母 とか

    子育て終了宣言とか

     

    そんな風に語られていることの先に

     

    空の巣症候群

     

    なんてものがあるということはさんざん耳にしてきていたわけで

    そんな中で

     

    もうかなり昔から息子は早めに家を出て独立すべきだと公私共に豪語して

    なんといってもしばらく前にアメリカに息子を送り出して一人暮らしは経験しているわけで

    気持ちも状況も準備万端で、空の巣症候群になることなんてない! と確信していたのだった。

     

    だから、息子がそそくさと一人で物件を決めてきて、なんか勝手に友達に頼んで引っ越しも済ませ

    私に頼ることもなく、さらっと独立していったのは、本当にすんばらしい、

    自分はなんてよい子を育てたんだ、子育て大成功じゃん! なんて思っていたのだった。

     

     

    だから

     

     

    引っ越しの日、荷物積んで

    最後に部屋をきれいにそうじして、

    お世話になりました、と頭下げて息子と友達がバンに乗って家の前の道を遠ざかっていったあと

    家に戻って

    からっぽになった息子の部屋を覗いたとき

     

    その場にへたりこんでしまった自分に

     

    心底びっくりしちゃったのだった。

     

     

     

    寂しかったわけじゃないし

    哀しいわけでもなく

     

    ただ、腰が抜けた。

     

    そんとき自分の頭に渦巻いていたのは、ただただ

     

    「疲れた」

     

     

    って言葉だった。

     

     

    子育て終わった。

    ってか、子育てって、もうなんていうか、激しくハードだったんじゃね?

    私、疲れたよー。ほんとだよ、心底疲れたよー!!

    へとへとだよ。

    なんか、すごくよくやったよ。

    よくやった。

    もう、なんだったん? これ。

    このすんばらしく濃厚で、キラキラして、でも泥のように重い疲れって、なんなん?

     

     

     

    ほんで、3日ほど使い物にならなかった。

     

    やってる最中は無我夢中で考えたこともなかったけど

    子育ての中にはすごく素敵なたくさんのことがあって

    でも同時に、膨大なことを乗り越えたり、犠牲にして我慢したり、ガチンコで向き合ってきた

    もう、その自分の費やしてきたエネルギーに、圧倒されてしまったんだと思う。

    終わるとわかってはいたけれど、想像などあまりしなかったことが

    本当に突然終わってしまった時、

    自分自身の過ごしてきた時間に圧倒されるという経験を、私は初めてしたんだった。

     

    自分、とうちゃんもかあちゃんも、一人でやってきたからかもしれないけど、

    これまで知っていたものとは全然違う

    もうぐったりとへたりこむような重い重い

    それでいて晴れやかで誇らしい、とても不思議な大きな疲労感だった。

     

    それは私が「子育て終了」とか「空の巣症候群」などとして想像してきた

     

    子供がいなくなったから寂しいなんて、子離れしていない証拠

     

    なんて思ってたこととは全然違う

    なんというか

    ありとあらゆる気持ちが詰まっていて、同時に

    本当にその時間の中に自分が投入されてはじめて、「えー、私今こんなこと思ってるよ! こんな状態になってるよ!」って知ってびっくりしまくる、という気持ちも詰まっていた。

     

     

    まあ、そんなわけで

    私の子育て終了は、子育てって仕事のすごさに「腰を抜かす」という経験だったわけだけれど

     

    その腰抜け状態はほぼ3日ほどで終わり

    あとは通常営業に戻った。

     

    それで、自分でもとても不思議なのだけれど

    その3日の間も、それから今日に至るまでの間にも

    「子供がいなく寂しい、子供に会いたい」

     

    と思うことはほぼ、ないんだった。

    (ごめんよ、息子)

     

    一人暮らしは非常に快適で

    寂しいことも、辛いこともなく

    好きなときに寝起きして、好きなもんを食べ

    誰にも気遣いすることもなく暮らせるって、この天国なに? って思うことのほうが大きかった。

    これも、まったく想像していなかったことだった。

    いや、ほんと快適だよ。一人ってすごい。

     

     

    ただ

     

     

    その快適さの中に

    時折、何やら不穏な気持ちの動きが混じり合うことに、だんだん気づくようになった。

     

    子供に会いたい、寂しい、とは違う不安定な気持ちのありかは一体何なのだろう? としばし考えていたら

     

    ああ、それは

     

    役割の喪失なのだ、ということに気づいた。

     

    この「役割の喪失」については

    子供をアメリカに送り出したあと、一人暮らしをした時にイヤというほど味わった気持ちなのだった。

    だって、ごはん作らなくていいのよ、毎晩。

    明日の朝ごはん用意しなくちゃ、って前の晩に考えなくていいのよ。

    一人なら、なけりゃどっか食べに行きゃいいんだし。

    学校行事に気配りする必要もなく、帰宅時間に右往左往することもなく

    まあ、とにかく「未成年」がいることで心配りしなくちゃいけないことを、何一つしなくて良くなった時

     

    なんか、ぽかーんとしちゃったんである。

     

    ぽかーん。

     

     

    あれ?

    何もしなくていいの?

     

    え?

    それじゃあ私、何したらいいの?

    って。

    あ、そうか。

    それがたぶん、「空の巣症候群」ってやつなのかしら。

     

    特に私の場合は、子供の独立=一人暮らしなんで

    たぶん、そこにまだ兄弟が残ってるとか、夫がいるというのとはちょっと違うんじゃないかと思う。

    ほかにまだ家族がいたら、そこに向けての役割は残るけれど

    一人暮らしというのは、自分の用事以外、なーんの役割もないってことなわけで

     

    その時代は私はなんか切なくて

    夜、一人で寝室に行くのがなんか哀しいから、居間に布団を敷いて上にこたつを置いて

    犬と一緒にそこでごはんを食べて、そのままずるっと横になって、テレビをつけたまま、寝たりしてたんだった。

    あはは。

    なんだ、十分このときは、寂しがっていて、子離れできたようでいてできていなかったんだな。

    すみません。

     

    その後、息子が帰国して一緒に住んでるうち、彼は仕事をして経済的に自立したわけで

    その

    「子供にお金を渡さなくても勝手に生きてるようになった」

    ことは、気持ちと関係性に大きく影響したように思う。

    「お金」を渡している間は、子供はどこか自分の分身のような気持ちでいたのかもしれない。

     

    まあ、そんなわけで、ひとつづつプロセスを踏んで子離れしてきたという自負があったので

    最期の最後に、家を出たあとで

    腰を抜かすとは思っていなかったんだった。

    人の感情って、いろいろおもしろい。

     

     

    なので、一人暮らしをしつつ時折感じてたのは

    「役割の喪失」という

    なんかちょっと切ないような

    「私がいないとこいつ、どうなっちゃうのか」という

    ある時期には負担にも感じていた義務感みたいなものは

    失うと、かなり切ないものなんだなあというような気持ちなのだった。

     

     

     

    さて、まだ続く。

     

     

    とはいっても、私は仕事もあるし友達もいて毎日忙しく、なんといってもやることが満載なわけなので

    そこはかとなく役割を喪失してはみたものの

    落ちこむことも危機に陥ることもなく、上手に適応できたよん、と自負していたんだけれど

     

    それが

     

    この年明けあたりから

    微妙にゲシュタルト崩壊し始めた感じなのだった。

     

    いや、やばい。

    かなり、やばい。

     

    ぽかーん が

    しょぼーん

    になった。

     

     

     

    なぜか。

     

     

    それ、犬がいなくなったからなんである。

    あ、死んじゃったんじゃないよ。

     

    父が突然死んじゃったので、

    それにより、上記の私のプロセスを一切踏むことなく突然一人暮らしになってしまった母が

    かなりの精神的危機を迎えているにあたり

    我が家の愛犬は、セラピードッグとして実家に出張しているんである。

     

    言い方を変えると、母に、愛犬を取られちゃったんである。

    (ま、そのうち帰ってくると思うけど)

     

     

    息子はいなくなっても、犬はいた。

    その生活から、犬がいなくなったら

     

    なんていうか、

    私の役割は、ただ私のためだけにあるようになって

    そこで初めて

    ああ

    犬がいる、犬に食べさせなければ、長く留守番をさせないようにしなくては、風呂に入れなくては

     

    と思っていたことが

    どれだけ私を生かしていたのか、ということに初めて気付いて

     

    そういえば

    息子が生まれてから23年の間

    子供も犬もいなかった時間はまったくなかったんだ、私ということを改めて思った。

     

    それはなんというか

    気持ちとか愛情とか感情の変化とか

     

    もうそのレベルではなくて

     

    習慣

     

    の崩壊に近くて

    たぶん、最初から役割を持っていなければこんな感情は抱かずに住んだのだと思うけれど

    23年分やり続けてきたことで習慣となっていたものが、これまでのように「増える」のではなく、一気に「なくなる」という形で突きつけられることに、メンタルがついていかないのだな、きっと、と思う。

     

     

    そういう、なんかいろんなことが段階を踏んで、ひとつづつ

    え、そういうこと? みたいに自分の中に湧き出ていくわけで

     

    それをあたかも「よくわかるわ、でもお一人は寂しいでしょう」なんて

     

    一人になどなったことのない人に憐れみを含んだ口調で言われたりしたら

    やっぱり

    私は心の中で「ちがーうーだろー」と豊田真由子風に叫んでしまうと思う。

     

     

     

    「おかあさんだから」の歌詞に多くの人が「ちがーうーだろー」と叫んだのは

    その中に

    本当にその場面の中に自分が立ったときに湧き出してくる、「えー、こんな気持ちって一体なに」とか

    「よくわかんないんだけど、辛いけどうれしくて、でもやっぱりしんどい」みたいな

    自分でもよく解析できない感情みたいなものが

    まったく垣間見えないからなんだろうなーって思う。

    (いや、まったくもって馬鹿にしてるわーって内容もあるんだけど、もうそれはいっぱい語られているので言わない)

     

    経験したことのないことは

    やっぱり

    想像だけではわからないことがいっぱいいっぱいある。

     

    だから生きてるって面白いし

     

    でもだからこそ

     

    安易に人の気持を決めつけることの怖さってものも

    忘れずにいたいって思うんだった。

     

    世の中には、自分なんていうちっぽけな経験値では想像することもできない、膨大な人生のシチュエーションがある。

    「おかあさん」という、ほぼ一般的にみんなが理解しているに違いないと思うような存在でさえ、わからないこころの風景がたくさんあるのだから、ましてや

    病気や障がいや、生い立ちなどのセンシティブなことに対して、安易な想像で共感や応援をすることの危うさは忘れずにいたいなあと思う。

     

     

     

     

    ってなことで、現在ゲシュタルト崩壊中なんだけど

    でも

    崩壊すると、そこからまた新しい自分が生まれてくるんだなあ、ということも知った。

     

    変化や喪失は試練でもあるけれど

    そうして初めて気づく自分の内側や、世界のありかたがあって

    ただただ、「増やす」「増えていく」ことだけに向き合うよりも

    減っていき、失っていき、崩壊していくことに向き合うことの豊かさというのも

    あるように思うこのごろなんであった。

    人生は、なんか不思議で愛おしい。

     

    何がなんだかわかんなくなったけど、久しぶりに書いたので冗長だけどこのままで。

    おやすみなさい。

     

     

     

    追記:

    少なくとも私の周囲だけでも、シングルで子育てしてきて、子供が独立して出ていったあとに

    役割喪失でへたりこんじゃった。。。。。。「なんてことまったくないんですけど!? 

    ぽかーんって、それ何? あんな面倒くさい役割なんてないほうが楽に決まってるじゃん。

    こんな楽な生活になれてほんとうれしさしかない」 って人はいる。

     

    上記はあくまでも私が経験したことで

    そうだねー!って思うエッセンスはいろいろあったとしても

    家族構成とか仕事とか暮らし方とか

    いろんな意味で同じ体験なんてひとつとしてないんだと思う。

     

    そういうの含めて

    「母親ってそういうもの」「子育てってそういうもの」という一般化って無理なんじゃね? 

    だって自分でさえ想像したことと違うんだから、と思ったのが

    この日記なんだった。

    そんなことを翌日の朝、読み返してみて思ったので追記しておく。

     

    そんでゲシュタルト崩壊のあとには新しい習慣が根付いてくるわけで

    子供も犬もいない暮らしっていうのは、さらにさらに

    実は心地よく自分らしくて、こりゃもう経験したらやめられないもんだなあ、なんてことも

    思い始めている2月の朝なのでした。

     

     

    category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(12) | - | -

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