広島県原爆被害者団体協議会(佐久間邦彦理事長)の理事として、平和活動を支える広島県府中町の世良豊子さん(81)。被爆していじめを受け、今も悪夢を見る。語り部は年3回ほどしかしない。「つらい過去を思い出してしんどくなる」からだ。それでも核兵器の恐ろしさを伝えようと、取材に語ってくれた。
原爆が投下された75年前の夏、広島工業専門学校(現・広島大学工学部)で化学の教師だった父と、母、1歳の妹と爆心地から2・3キロの広島市牛田町(現・東区)で暮らしていた。朝、父と一緒に市の中心部へ豆腐を買いに行く予定だったが、家族全員が寝坊した。「行っていたら、今の私はおりません」
家族で縁側のちゃぶ台を囲んでいたとき、突然カーッと光り、真っ暗になった。気がつくと約3メートル離れた部屋まで飛ばされ、天井の下敷きに。家の中は燃えていた。「うちに爆弾が落ちた。もうダメだ」。また気を失った。
目を覚ますと父の背中の上だ…