高下裕子(こうげひろこ)さん(60)の娘の真美子さんは、小学生のバスケットボールチームに入っていた。小学5年のとき、足や体によくあざができるようになった。
バスケは接触もある激しいスポーツだ。高下さんは「そのせいかな」と、あまり気にしていなかった。
ところが、真美子さんが冬のマラソンを「すごくしんどい」と言うようになった。
「運動が得意だったのに、どうしたのだろう」
高下さんは少し気になり始めた。
小学5年が終わろうとしていた2003年3月のある朝。起きてきた真美子さんの歯ぐきから大量の血が出ていた。
だが、真美子さんは気にすることもなく、ティッシュを口にくわえて、いつも通り走って学校に行った。
高下さんは気になって、近くの小児科の医師に相談した。
「今すぐに学校に迎えに行って、すぐに連れてきて」
担任に説明して、真美子さんを連れて受診した。検査結果が出るまでに、医師は「白血病かも」と高下さんに告げ、大学病院への入院を勧めた。
病名を告げるか、告げないか…
入院中は高下さんがずっと付き添うことになった。
検査の結果は「急性骨髄性白血病」。助かる確率は「6~7割」と言われた。
病名を告知するか、高下さんは夫と悩んでいた。医師からは「言いましょう」と勧められたが、「がんはこわい、亡くなる」というイメージが強く、「かわいそうだから言わないでほしい」と医師に伝えた。
病名は伏せることにして、「再生不良性貧血」と伝えた。医師からは「血液の中に悪い虫がいるからやっつけるんだよ」と説明してもらった。
伝えたのは担任の先生と親族だけで、心配してくれる近所の人にも伝えられなかった。
抗がん剤の治療は順調だった。
真美子さんはバスケチームのキャプテンとして、チームの試合の前には、励ましの手紙を書いた。
「仲間を信じ、自分を信じ、自分に勝て」
だが、抗がん剤5クール目から40度の熱が出るようになった。
入院中の子どもが参加する病院内の行事があったが、感染リスクが高いために、どれも出られなかった。少しだけ病院内の院内学級に通えただけだった。
隔離された部屋で、本を読んだり、先生の似顔絵を描いたり、40度の高熱に苦しみながら眠ったり――。そんな日々だった。
真美子さんは入院中、2回だけ「私、白血病なんやろ、死んでしまうんやろ」と言ったことがある。それを聞いた医師も、高下さんも、本当の病名を口にすることはなかった。
「友だちから病気のことを聞かれても、どんなふうに言えばいいのか、わからない」「しんどい治療しているのに、悪い虫がいる病気だと言うのもつらい」
高下さんは最後まで、白血病だとは伝えなかった。
抗がん剤6クール目の前、真美子さんは髄膜(ずいまく)炎になった。ほとんどろれつが回らなくなり、意識が遠のいてきた。
「お母さん、そばにいてね」
そう言った後、何人もの看護師がダダッと部屋に入ってきて、高下さんは部屋から出るように言われた。
1カ月ほど意識がないまま、真美子さんは03年8月、亡くなった。診断からわずか5カ月後のことだった。
高下さんは「早く、気付いてあげたら……。私が殺してしまったんじゃないか」と悔やんだ。
真美子さんは、手紙を残していた。
白血病の子のドキュメンタリ…