第1回見たまんまで高木ブーに 全員集合した僕らへ、ハナ肇からの贈りもの
《「ブー」という芸名は最初、ありがたくない贈りものだった。名付け親は、クレージーキャッツのハナ肇。昭和まっただ中、60年ほど前にさかのぼる》
「名前をつけてやる」
ハナ肇さんが急に言い出した。全員集合した僕らドリフを前に。
当時所属していた渡辺プロダクションの社長の家に集まっていた日だった。
芸能界で成功するにはさんずい偏とか水にまつわる名前がいいとかで、加藤には茶。荒井さんには要注意人物の注。そして一番最後、僕には……。
「お前はブーでいいや」
見たまんまだけで決まった。
タレントの高木ブーさんが半生を振り返る連載「人生グー&ブーティフル」の全4回の初回です。
それから何十年もブー。たまったもんじゃないよ。たしかに前から周りに「ブータン」って呼ばれてたけど。
他のみんなもバンドマンなのに、正直微妙な芸名だった。でも、事務所の大先輩のハナさんには文句言えなくて。怖くて。昔の芸能界は厳しかったからね。
《やがて芸能界のビッグネームになるのが信じられないほど、こまやかで控えめだった》
今もそうだけど、僕には自分ひとりで何か動かしていく力はない。気が小さくて、本質的に強くない。
昔からガキ大将タイプじゃなかったね。腕っぷしの強い感じとは反対の。特別なものは何もなくて。
末っ子でおやじにかわいがられて育った。近所の子と遊んでても、みんなが塀をよじ登って先に行っちゃうのに、僕は登れない。おやじに頼んで門の鍵を開けてもらうか、隣の女の子のヤエちゃんとままごとをする。運動が苦手で、いつもみんなの後ろを付いていく。
まあいいやっていい意味で諦めちゃうの。僕は弱虫だったから。
防空壕があった家、空襲で焼けた
《生まれは戦前、6人きょうだいの末っ子として育つ》
僕が生まれたのは1933(昭和8)年、東京の巣鴨です。
おやじは「金門商会」っていう水道メーターやガスメーターを作る会社にいた。住んでた社宅のそばには、立派な松の木とコイが泳ぐ池。家の廊下にはジャズが流れてた。
けっこうハイカラな家でね。姉は社交ダンス、兄たちはボーイスカウト。家族でマージャンもしてたね。
そんな家の庭に、防空壕(ごう)ができた。
小学校の時、太平洋戦争が始まったんだ。前は映画館でも西部劇とか洋画が見られたのに、戦時中は戦争の物語ばっかりに。
兄たちは軍人になった。
僕は軍国少年になった。
《12歳のころ、空襲で我が家が焼けるのを目の前で見る》
昭和20年の春だった。焼夷(しょうい)弾にやられ、うちが焼けちゃう。消防団なんて来てくれない。消せないまま逃げたよ。庭の防空壕に隠れてたら、火の手に巻き込まれて死んでたな。
それからは、ちっちゃなバラックを建てて暮らした。雨になると生活できない。
しかたなくお袋の実家の千葉へ移ったんだけど、近くに陸軍の飛行場があって。戦闘機を見ながら、将来は飛行機に乗って将校さんになりたいって思うようになった。
楽に早くえらくなりたかった。小学校の時、作文に書いてたもんな。今じゃ考えられないよね。
今みたいに自由じゃない時代を生きてきた。
おかしなもんだな。人間というのは。
戦争で大切なものをなくした後、ある出会いが訪れます。やがて芸能界へ入ることになったきっかけとは――。
国で定められたことを信じて…