「インサイド・ヘッド」の設定には大きな難がある!と2015年公開のピクサーのアニメーション映画を見た時からずっと考えていました。その疑問を、第1作の監督で続編「インサイド・ヘッド2」(現在公開中)製作総指揮のピート・ドクターさんにぶつけると「その問題なら一晩中だって語れるよ」とニヤリ。やっぱり悩んでたんですね!
そして第2作で問題は解決、私も納得。「でも設定を全否定してるのでは?」、ドクターさん「いやいや――」。今回はそんなお話です。あ、最後の方にネタバレがあります。
少女ライリーの頭の中に「司令部」があり、キャラクター化された「感情たち」が激論を交わして彼女を導いていくという設定で、第1作ではヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカが登場します。ライリーは引っ越しと転校と「司令部」の機能不全により精神的危機に陥りますが、カナシミに大事な役割があることをヨロコビが悟る――ライリー視点で言えば悲しみを見つめて受け止める――ことで、ライリーは一歩成長する。めでたしめでたし。
私が何に引っかかったかというと、ライリーにフォーカスしてドラマを進めるとそこにどうしても「人格」が現れてきて、司令部のスッタモンダが余計なものに見えてくるというか、かみ合わないものを感じる、という点です。日本のアニメなんかでしばしば見る「脳内会議」は、様々な感情のせめぎ合いというか葛藤の可視化の域を出ない(私の不勉強だったらゴメンナサイ)のに対し、「インサイド・ヘッド」は分離度が大きいのです。
司令部でのトラブルでヨロコ…