第29回「誰のための自由か」若き宮沢喜一が憧れた米国で今問われているのは
官僚や政治家として、半世紀以上にわたって日本外交の中枢を担った宮沢喜一元首相。「知米派」として知られ、日米関係を基軸とする外交の基礎を築いた宮沢氏の思想の根底にあったのは、19歳の時に「日米学生会議」のために渡った米国で感じた「自由」へのあこがれだった。米国にもルーツを持つ2人の孫が、祖父の米国観を語った。
「祖父は生前、『戦前に発言ができなくなっていったことが息苦しかった。自由ほど大事なことはない』といつも言っていました」。起業家のラフルアー宮澤沙羅さんは言う。宮沢氏の娘の啓子さんと、米国の外交官だったクリストファー・ラフルアーさんの間に生まれた。
宮沢氏は、沙羅さんら家族といる時も、意見を交わすことを好み、異論を歓迎した。縛られずに思考することを重視する姿勢の背景にあったのは、かつて「思想の一本化」を求められたことへの激しい怒りだ。
東京帝国大学の学生だった宮沢氏は1939年、日米両国の学生が夏季に共同生活をしながら議論を交わす「日米学生会議」に参加した。
日中戦争のさなか。会議は、日本の中国侵略をめぐり激しい議論の応酬となった。軍部が学問にも言論にも干渉し、自由が圧迫されて次第になくなっていく中で育った日本側の学生は、周到に準備を重ね、日本の立場を「集団的態度」で擁護した。だが、米側の学生からは「日本の言うことはもっともだ」「貧乏な国にかわいそうじゃないか」などと多様な意見が出た。
10代のころからリベラリズムの古典であるジョン・スチュアート・ミルの「自由論」を原書で読んでいた宮沢氏が、「自由」を体感した初めての経験だった。
「自由な社会をはじめて見てショックを受けた。こんな国と戦争をすれば勝ち目はない、と子供心に思った」(自著「戦後政治の証言」)
敗戦を迎えたのは、それから6年後。ここで、宮沢氏は「権力者」としての米国の現実の顔を目にする。わずか29歳で、第3次吉田茂内閣の蔵相だった池田勇人の秘書官に就任。米国の占領下、日本の官僚は「毎日毎日占領者から命令を受けるという屈辱を味わった」(御厨貴、中村隆英編「聞き書 宮澤喜一回顧録」)のだ。そんな中で、英語力の高さから重用され、池田とともにサンフランシスコ講和条約の締結に向けて尽力。吉田首相が平和憲法のもとで安全保障を米国に頼り、軽武装で経済を重視する路線(吉田ドクトリン)を打ち立てるのを間近で目撃した。
「サンフランシスコ講和ぐらい屈辱的だったことはない」
御厨貴・東京大名誉教授の聞…