Re:Ron連載「あちらこちらに社会運動」第3回【おもし論文編】
20代、大学院生時代のほとんどを東京で過ごして、5年前に改めて帰ってきた。いわゆる勤め人として戻ってきて驚いたのは、東京という街がこんなにも居心地よいのか、ということだ。
例えばだけど、東京駅に到着して、待ち合わせにちょっと早く着いたとしても、時間をつぶす場所には全く困らない。駅ナカのファストフードからホテルのラウンジ、最近はPC通話ができる1人用のワークスペースまで、少し歩けば涼しくてwifiも電源も使える場所がたくさんある。
どこに行っても居心地がいい――この街に自分は歓迎されているとまで言わないにせよ――排除されていない、ということでもある。東京駅から15分も歩けば帰れる、つまり寝泊まりする場所があるし、別に毎日豪華なご飯を食べるわけでないなら、食べるものにも場所にも事欠かない。
ここまで私がこの都市で嫌な思いをせずに済むのは、たまたま現在安定した仕事があって、過ごす場所を選べるくらいの経済力があったり、年を重ねて、若い頃よりはいろいろな場でナメられずに済むようになったりしたことでもあるだろう。
「都市における排除」という言葉は、おそらく新聞のデジタル版を読むくらいの人にとってはもはや常識であるだろう。例えば「排除アート」といった言葉で称されるような、ホームレス排除のベンチやアートは、2020年(21年)のオリンピック開催を前に再度大きな話題になった。20年に東京都渋谷区幡ケ谷のバス停で休まざるを得なかった女性野宿者 が「邪魔だから」という理由で殺されてしまった事件は、多くの人の記憶に残っているはずだ。24年には新宿区の区立公園に設置されたアーチ型のベンチ が「意地悪ベンチ」と批判され話題になった。新宿区はこの批判に対して「繁華街が近く、酔っ払いの滞留対策のため」であると説明している。
こうした事例は、よく野宿者問題や泥酔者(をはじめとする街路で「迷惑」とされる人々)の問題と結び付けられるため、「他人事」と感じる人も少なくないだろう。しかし、「排除」は、もっとソフトに生じるものでもある。あなただって私だって、なんらかの意味では、生まれ持った属性や階層や職業や年齢によって「排除」されているかもしれない。
みんなのものである「都市」からの排除
先日、「X」のポストで、渋谷に人々がたむろする場所がないことが話題になった。18軒あるスタバも常に満席だという。渋谷ストリームホテルのラウンジやヒカリエにあるスイーツショップ併設のカフェくらいなら空いているかもしれないが、価格的にも雰囲気的にも「誰にでも入れる」とは言い難いだろう。「若者の街」と呼ばれた渋谷が、若者のいづらい街になっている。こうした現象を聞くと「ジェントリフィケーション(都市の高級化)」 という言葉を思い浮かべる人もいるだろう。
都市は公共空間であり、納税の有無や、消費をするしないにかかわらずみんなのものである。「多様性」が現在至る所で主張されているが、都市に限りある人々しかいられないというのでは、その都市は結果として多様性もなくなり、限られた人の姿しか見えないということになる。それは、すなわち自分と異なる他者への想像力を欠いてしまう状況にもつながる。
私たちが都市から排除される…
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- 【視点】
根本的な問題は、「排除によって居心地がよくなる」層というものが存在し、「そいつらのほうが声がデカい」という特徴を有する点だろう。えてして、ほどほど許容度の高い「普通の住民たち」は声を上げない。 もし「声のデカさ」が均等になればこのあたりの問
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