歌舞伎の申し子、決意の離座 心解いた寂聴さんとの電話
昭和の初め、近代化を求めて大歌舞伎を飛び出した役者らが旗揚げした劇団「前進座」。草創期を支えた名優五代目嵐芳三郎を父にもつ嵐圭史さん(81)は、志を一つにする座員らが共に暮らす劇団の共同住宅で生まれた初の赤ん坊でした。そんな名実共に「申し子」として半生を捧げてきた前進座から2017年、離座。代表作「子午線の祀(まつ)り」や「日蓮」で演劇界を牽引(けんいん)してきた名優が、故郷同然の劇団を離れて「ひとり」になった時、思わず涙した言葉とは。
座員住宅での生い立ちを「舞台理念を共有でき、誰もが平等。前進座『らしさ』を育む大きな家族のようだった」と懐かしむ。「父も、亡き兄の六代目芳三郎も劇団に骨を埋(うず)めた。僕も当然、同じ覚悟で生きてきた」。だからこそ離座は「人生の想定外」で、理由も「様々な要因の積み重なり。言葉ではとても表現しきれない」という。「ただ己の天命と一座の未来、深く深く考えてのこと」。劇団敷地内の住宅から「外界」へと人生初の引っ越しをして、さて、どう生きようか。「終生役者だ、芝居しかない」。新たに立てた公演計画がようやく軌道に乗った19年春、諸々(もろもろ)の報告を、と電話した相手が、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(99)だった。
出会いは、39歳で主演の平知盛(とももり)役に大抜擢(ばってき)された1979年の舞台「子午線の祀(まつ)り」。寂聴さんが観劇したのがきっかけというが、「人生は不思議。運命の歯車を大きく動かしたこの舞台は、本来なら僕が出られるはずのない公演だった」。実は「子午線」千秋楽のわずか5日後に開幕する前進座の舞台「日蓮」で、初役のタイトルロールに抜擢(ばってき)されており、常識的には両立が不可能な日程だったのだ。
外部出演の「子午線」を断る選択肢もあった。だが前進座創立者の1人、中村翫右衛門を筆頭とする当時の劇団執行部は、この「無理」を通した。5月開幕の「日蓮」を2月の稽古で完璧に仕上げ、3月に始まる「子午線」の稽古へと送り出してくれたのだ。大評判となった「子午線」の閉幕後、中4日で頭を切り替え勘を取り戻し、「日蓮」に挑んだ。こちらも喝采を浴び、二つの舞台は、いずれも代表作となる。両立した自信は、生涯、どんな局面でも「決して舞台を諦めない」役者魂の支柱となった。
知盛役を注目されることが多いが、「実は難しかったのは日蓮」と明かす。「知盛は年代的にも当時の僕と等身大で、前進座で学んできたすべての集大成として取り組めた。だが日蓮は、年齢も人としての境地もかけ離れ、声の出し方一つからして違う。直前の『子午線』で、木下順二さんや宇野重吉さん、野村万作さんら、素晴らしい先輩方と一つの舞台を作り上げた経験と自信が有形無形の支えとなってこそ、初めて演じることができたと今は思う」
それから3年間、一月も休まず舞台に立ち続けた。役者人生で最も忙しく、最も多くを吸収した日々だ。そんな汗も涙も喜びも、すべて詰まった劇団を、喜寿を超えて離座する日がこようとは。
自分の中でもたやすく整理のつく話ではなかった。だからこそ、電話口に出た寂聴さんの開口一番、「あなたのことは人づてに聞いていますよ」と万事合点な言葉に、「さすが先生」とゆるんだ目元が、続く言葉で、熱くうるんだ。
「あなたはもう十分に仕事を…
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