中村裕さんに聞く③
瀬戸内寂聴さんは80代後半から体調を崩すことが多くなった。生老病死の「老」「病」と戦いながら書き続け、東日本大震災の被災地に足を運んだ。映像ディレクターの中村裕さん(62)は、寂聴さんのその姿も記録に収めてきた。
連載「寂聴 愛された日々」はこちらから
ゆかりがある方々へのインタビュー連載。秘書の瀬尾まなほさんが寂聴さんの素顔を語っています。
――2011年の東日本大震災後、被災地を訪れました。どんな様子でしたか?
震災の前の年、88歳のときに腰椎(ようつい)の圧迫骨折で手術をして、ほぼ寝たきりのような状態でした。震災のときは、京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)のベッドの上でした。それが福島第一原発事故の映像をテレビで見て、ベッドから立ち上がりました。「原発ショック立ち」と言われていますよね。
「自分には、やらなければならないことがある」と言っていましたから、すぐにでも被災地に行きたかったと思います。体調が悪いなか、震災から3カ月後の6月に天台寺(岩手県二戸市)で青空説法をすることになりました。それにあわせて被災地の小学校に行って、子どもたちを励ましました。日本中の人たちを気遣い、どうしたら苦しんでいる方の力になれるのだろうかと考えていました。
――小学校のほかにも行ったところはありますか?
実は、お忍びで、宮城県の沿岸を5時間ぐらい車で回りました。先生が来ることがわかると大騒ぎになるので、法衣姿ではなく、一緒に行っていた仲の良い女性の服を借りて、帽子をかぶって変装しました。
いたるところに、たくさんのがれきが残っていましたが、そういうところを自分の目で見たかったんです。「作家は現場を見なければ、だめ。現場の匂いを感じないと、だめ」と話していました。あのときは僧侶ではなく、作家としての好奇心が強かったと思います。
もちろん、被災者のみなさんの力になりたいと思っていましたし、「私が被災者を見舞っているけど、逆に被災者から影響を与えてもらっている」と言っていました。自分が施すことよりも、アクションを起こすことで得るものがある。人の苦しみ、悲しみ、負のエネルギーを栄養にしていました。やはり作家ですよ。
――書くための栄養ですか?
僧侶としてだけなら施すという意識がありますが、作家だから栄養にします。苦しみ、悲しみを背負った人はどうなるのか、一つずつ自分の引き出しにしまっていたんです。小説は、人の苦しみ、悲しみを書くわけですから。「幸せな状態で、いい小説は書けない」と語っていました。そういう作家を追っている私も、あなた(記者)も鬼畜みたいなものですよね。先生は仏さまのようだけど、書いているときは鬼。ない髪の毛を逆立たせて書いていたわけです。
――現場に行って自分の目で見る。湾岸戦争のときにイラクに薬を持っていったのもそうですか?
記事の後半では、大病を経てもなお原稿に向き合う寂聴さんの姿が語られます。
「行けば、なにかがある」…
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