第2回「アレルギーを治す科学者」が娘の夢だったから 語り継ぐ事故の教訓
校門が見えてきた。
娘の異変を知らせる電話を受け、駆けつけたあの日以来だ。
小学5年生だった三女の沙清(さきよ)さん(当時11)が給食を食べて亡くなってから10年になる。
現在の校長が、自宅にお線香をあげに来てくれて言った。
「教師たちに、お話をしてもらえないでしょうか」
「自分が役に立てるなら」
母(60)は引き受けた。沙清さんを知る人がつないでくれた縁だった。
事故の後、学校からの連絡は途絶えていた。卒業アルバムも卒業証書ももらえず悲しかった。
沙清さんを亡くした後、両親は「訴訟とか争うことは一度も考えなかった」。長女と次女も誰かを責めるようなことを口にしなかった。
母は「悔しい思いはもちろんある。でも、娘が戻ってこない以上、同じようなことが起きないよう礎にしてほしい。娘の死を無駄にしてほしくない」。
そう考え、再発防止のための委員会や市教育委員会による食物アレルギー対応のマニュアル作りに全面的に協力してきた。
誰かを責めたり悪口を言ったりしたことがない沙清さんのことを思うと、こうするのが一番だと思った。
東京都調布市の小学校で2012年12月、食物アレルギーのある沙清さんが給食の後、アナフィラキシーショックで亡くなった事故から10年。母は、依頼があれば各地へ出向き、教職員らに体験を話してきました。思い出すのもつらい当日の状況も…。講演を聴いたある園長の一言に救われたといいます。
校長から頼まれた講演は今年…