第24回書けなかった2人だけの会話 友達だから大谷翔平を「売りたくない」
世界を沸かせる大リーガー、大谷翔平(ドジャース)の友である自分と、記者として接する自分――。そのはざまで心が揺らいだ。
太田知将さん(30)は、3月まで岩手日報の運動部記者だった。
一昨年6月、アメリカへ出張し、当時エンゼルスでプレーしていた大谷を現地で取材した。その2カ月間を振り返り、胸の内を明かす。
「嫌でした。翔平も、僕が取材に行くのは嫌だろうなと思って」
出会いは2010年にさかのぼる。
太田さんは小中学生時代に所属したチームの先輩、菊池雄星(33)=現アストロズ=に憧れて花巻東高へ入学。大谷と野球部でチームメートになった。入学間もない夏の岩手大会で、1年生で自分たち2人だけが背番号をもらった。内野手の太田さんが「16」で、投手兼外野手の大谷が「17」。ともにその秋にはチームの中心を担い、支え合った。
太田さんは、投打の両面で成長を遂げる大谷の姿をそばで見ていた。
大谷は中学まで苦しんだ制球が改善された。球威も増し、3年夏の岩手大会準決勝で時速160キロを計測する。打順は「花巻東で一番いいバッター」が座る3番が大谷の指定席だった。
3年春の選抜大会1回戦でチームが敗れて以降、自分の打順は1番から4番に変わった。大谷が勝負を避けられた後に打席が回ってくる重圧で、不振に陥る仲間が後を絶たなかったからだ。
目の前で大谷が敬遠されると、ムッとなった。でも、「自分は自分」。「4番目の打者」と割り切り、冷静に打席へ入った。
大谷の才能に嫉妬はしていないし、守備位置もかぶらないからライバル視もしなかった。素直に「こういう人がプロ野球選手になるんだな」と思えた。
あの頃と変わらなかった大谷
大谷は12年秋のドラフト会議で日本ハムから1位指名され、プロの世界へ羽ばたいた。大谷が日本球界で最後にプレーした17年の春、自分は東海大を卒業して岩手日報に入社した。
初めは記者ではなく、営業職だった。岩手日報の販売所に足を運び、新聞がもっと売れるようになるための方法を模索した。人事異動で21年から記者になった。3カ月間の市政担当を経て運動部に。フェンシングや柔道などを取材し、原稿の書き方を覚えた。
米国出張を任されたのは、運動部に移って1年ほど経ってからだった。
エンゼルスのユニホームを着…
- 【視点】
高校時代の同級生だからこそ、大谷が「自分の成績よりチームが勝ったことを喜ぶ」という彼のパーソナリティがストレートに伝わってきました。負傷し満足にプレーできなかったうえでの優勝を彼がどうとらえているか。読者が知りたいことに応えてくれました。太
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