第4回戦後、営業を続けた唯一の中華料理店「民生」 焼け野原からの再開
神戸市中央区の元町通に店を構える中国料理店、「民生(みんせい)」。戦前から華僑が集う神戸・南京町で、戦後の荒廃期にも1店だけ営業を続けた老舗の飲食店だ。神戸空襲や震災をどう乗り越えてきたのか――。
民生はもともと、「呉(ご)松記(しょうき)」という精肉店だった。1868年の神戸港開港以来、多くの華僑が出稼ぎ目的で神戸に訪れた。南京町商店街振興組合によると、当時の清国(現中国)は日本と条約非締結国だったため、華僑は外国人居留地に住めず、その西側に隣接する地域(現南京町)に住み始めた。
店長の呉(ご)正一(しょういち)さん(58)の祖父・錦松(きんしょう)さんもその1人。1920年代に広東省から来日し、現六甲道にあった養豚場から豚肉をおろして店を切り盛りした。
だが、日中間で緊張が高まった37年。錦松さんは「中国への最後の船が出る」と聞き、5人の息子と日本人の妻を残し、中国へ帰国。終戦の45年には、神戸市内は5回にわたる空襲で焼け野原になり、養豚場も焼かれて商売ができなくなった。
■誕生の秘話…
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