もうじき「昭和100年」 鈴木聡さんが語る「激動」の時代

有料記事リレーおぴにおん

聞き手・山口宏子
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 2025年は「昭和100年」、敗戦からちょうど80年になります。戦前、戦中、戦後、高度経済成長、不況、そしてバブルへ――。光は強く、影も濃かった「昭和」とは、どんな時代だったのか。1959年生まれの脚本家で、広告プランナーとしても活躍する鈴木聡さんが感じてきたことは。

リレーおぴにおん 「100年目の昭和」

 「激動の」は、昭和に付く決まり文句ですが、主な出来事の大半は、僕が生まれる前か、物心つく前に起きたことです。それでも自分とつながりを感じるのは、身近な人たちの体験であることと同時に、テレビで繰り返し見てきたからでしょう。

 僕は戦後14年たって東京の中央線沿線で生まれ、特別な苦労もなく育ちました。そのため、少年時代は、自分にしっかりした「根拠」がないように感じ、テレビの中の「激動の昭和」に「大変だっただろうな」と思う一方で、無邪気な憧れを抱いていました。

 戦後の「焼け跡・闇市」について書かれた本を読むと、混沌(こんとん)の中に猥雑(わいざつ)なエネルギーを感じたし、放送局に勤める父の話からは、テレビ草創期の「新しいものを作る」という、がむしゃらな熱が伝わってきました。

 学生運動をしていた親類のお兄さんを見て、「権力と命がけで闘う若者」は格好いいと思い、「自分もあと10年早く生まれていたら」と想像したものです。背伸びして高野悦子さんの「二十歳の原点」や奥浩平さんの「青春の墓標」を読みました。いずれも学生運動の中で、20歳と21歳で自ら命を絶った学生の遺稿です。

 平成が始まったばかりの1989年春、主宰する劇団で、作・演出した「ショウは終わった」を上演しました。題名には「昭和終わった」と「ショーは終わった」を掛けています。ある家族がテレビの視聴者参加番組で「昭和の思い出」を披露するという話。劇中で、祖父や父母らが、戦争、初めて我が家にテレビが来た日、学生運動などを語ります。その「劇的」な体験談を聞きながら、18歳の娘は、自分の「盛り上がらなかった昭和」を思う。これは、僕の実感と重なります。

 同時代の「激動の」は、72…

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