政権交代からのあの3年は何だったのか。光と影。期待と裏切り。民主党政権の渦中にいた人が政界を去るという。市民運動から首相に上り詰めた菅直人氏だ。原発事故時に首相として対応。批判を浴び退陣に追い込まれた人は今、何を思うのか。権力の中枢に身を置いた政治家の言葉を求め、会いに行った。
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――77歳。政界引退ですか。
「大阪府知事選に出ろなんていう人もいますけどね。次に何かをやろうと考えて、衆院選に出ないと言っているのではありません。これで一区切りをつけようと。前回の衆院選で最後にするというのが(妻の)伸子との約束でしたから」
――女性参政権の運動で知られた市川房枝さんを1974年の参院選に担ぎ出したのをきっかけに政治の世界へ。原動力は何だったのですか。
「市川さんの選挙があまりにうまくいったので、次も誰かを出そうという話になり、自分が出ました。しかし3回落選。家族はもうあきらめるだろうと言っていたらしいですが、4回目で当選しました」
「私の姿勢はいつもテーマ型。たとえば薬害エイズの問題では、(非加熱血液製剤によるエイズウイルス感染を実名で公表していた)川田龍平さん(現・参院議員)と出会ったのがきっかけ。徹底的に調べました。自社さ政権で厚生相となり、その先の民主党政権にもつながるのですが、『政権を取ろう』という意識とは違う。行動の結果として権力構造とぶつかるけれど、入り方はいつもテーマ型」
――厚生相としての薬害エイズ問題への取り組みは市民運動出身らしさが発揮されたと。
「厚生相になり、それまで役所ぐるみで隠していた(厚生省の内部)資料が出てきました。隠しきれないと思ったのでしょう。人があれだけ死んでいるのに認めようとしない。役所のすさまじさがよくわかりました」
「覚えているのは、厚生相の前任者からの引き継ぎのこと。役所の人たちを前に『お世話になりました』とあいさつしていた。私は、自分が大臣を辞めるときに同じことは言わないだろうと思って見ていました。役所の手取り足取りで大臣の仕事は成り立つのでしょうが、そんなことをやってもおもしろくも何ともないですからね」
――96年に民主党を結成し、2003年に小沢一郎さん率いる自由党と合併。それまでの土壌が違う勢力と組んだことをどう総括していますか。
「そりゃ異質な要素ではありますよ。こちらは市民運動の政治家としてやってきたけれど、政権を担うというのは、力学が1桁も2桁も違う。小沢さんと一緒になったことで、政権を取ることのリアリティーが生まれたのは確かです」
「こっちは市川さんがスタートで、小沢さんは良くも悪くも正反対。札束を集め、一緒に飛び出してきた議員は必ず当選させる。そんなすごみがあった」
正反対だった小沢氏
――数とカネこそが力の源泉だという世界。相いれますか。
「結果的にはその両方があっ…
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