第2回突然いなくなった父 ルーツでも差別、幼少期の「ハンメ」の記憶
幼少期を山口県で過ごしたトシオさんは、家族の出自で周囲から差別を受けます。ある日、父親が突然連れて行かれ、一家はさらなる差別と困窮に苦しむことになります。
俺は日本で生まれ育ったけれど、おじいちゃんの代に朝鮮から日本へ来ました。「在日コリアン」です。もともとは朝鮮籍やったけれど、いつかは海外旅行に行きたいなあと思って行きやすい韓国籍にかえました。でもまだ韓国にも行ったことはありません。
若い時に外国人登録で義務づけられていた指紋押捺(おうなつ)をさせられたことがあります。就職での朝鮮人差別はひどかったし、むかしは日本国籍取得の申請をしようとしたこともある。でも、相談した役人に「税金を納めてないようならあかん」って言われた。思い通りに社会経験を積むことができんかったのは国の隔離政策のせいやのに、もう嫌になってしもうた。今はもう年をとったし、今さら国籍を変えようとは思いません。
生まれたのは山口県です。父親は炭鉱で働き、家族で従業員用の棟割り長屋に住んでいました。海を見渡せる陸地に長屋がいっぱい並んでいて、「ぼた山」の横をトロッコが通っていました。幼い時の原風景です。
両親とも朝鮮人で、祖父母も山口県内に住んでいました。父方の祖父母は生活にゆとりがあるようでした。畑があって、牛や豚を飼育していた。家の中にはステレオがあって、遊びに行くと、魚の天ぷらとかごちそうが出たし、たまご焼きを食べさせてもらえるのが楽しみでした。
母方の祖父母の家は山の中にありました。水道が通っていなくて、ため池の水を生活用水にしていた。畑でタマネギを作っていて、遊びに行くと、朝から晩までタマネギのみそ汁が出たのを覚えています。
母方の祖母は「ハンメ(朝鮮語でおばあちゃんの意味)」って呼んでいました。いつも朝鮮服(チマ・チョゴリ)を着ていて、ハンメが母親の家事の手伝いで長屋に来ると、すぐに朝鮮人って分かります。近所の日本人の子どもらが「チョーセンの♪山奥の♪」と大声で歌ってからかいました。すると、ハンメは「同じめし食(く)て、とこ(どこ)違う」と毅然(きぜん)と言い返しました。「イルボンチャシギ(日本の子どもが)」って怒ってたし、気が強かったなあ。
ハンメの話をしていたら、朝…